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第三次台湾海峡危機[だいさんじたいわんかいきょうきき]
1995年-1996年台湾海峡危機又は1996年台湾危機とも呼ばれる第三次台湾海峡危機は、1995年7月21日から1996年3月23日まで台湾海峡を含む中華民国周辺海域で中華人民共和国が行った一連のミサイル試験の影響であった。1995年半ばから後半にかけて発射された最初のミサイルは、一つの中国から中華人民共和国外交政策を引き離すものと見られていた李登輝の下の中華民国政府に対する強力な信号を送ろうとしたものと見られている。第二波のミサイルは、1996年初めに発射され、1996年中華民国総統選挙への準備段階の台湾総統選挙に対する脅迫の意図があると見られた。 ==李登輝の1995年のコーネル大学訪問== 危機は李登輝総統が「台湾の民主化経験」に関する演説を行ったコーネル大学アルマ・マータからの招待を受けると始まった。中華民国を外交上孤立させるよう求めて、中華人民共和国は訪問に反対した。李登輝は台湾独立運動の考えを持っているので地域の安定への脅威であると主張した。南アメリカへの旅行の後に給油のために李登輝の乗った飛行機がホノルルに立ち寄った1994年初頭、ビル・クリントン大統領のアメリカ合衆国政府は、査証を求める李登輝の要請を拒否した。李登輝は空軍基地に足止めされ、飛行機に一晩中留まることを余儀なくされた。アメリカ合衆国国務省当局者はこれを「厄介な状況」とし、李登輝は二流指導者の扱いを受けたと抗議した。 李登輝がコーネル大学訪問を決めると、ウォーレン・クリストファーアメリカ合衆国国務相は銭其琛中華人民共和国外務相に李登輝に対するビザが(アメリカ合衆国と台湾の)非公式な関係と矛盾することになると確約した。しかし1994年の訪問において李登輝が受けた恥辱は、多くの台湾支持者の注意を向けさせたため、アメリカ合衆国議会は李登輝の為に動いた。1995年5月、李登輝がアメリカ合衆国を訪問できるよう国務省に求めるがアメリカ合衆国下院で棄権38票と共に396票で、アメリカ合衆国上院で棄権2票と共に97対1で可決された〔. 上院議員(民主党LA)はただ一人の反対者であった。〕。国務省は1995年5月22日に態度を軟化し、中華人民共和国はアメリカ合衆国を米中関係を損なうものと非難した。 李登輝は1995年6月9日から10日が「中国を分断する」企図を持つ「裏切り者」と烙印を押すようなコーネル大学同窓会に参加した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第三次台湾海峡危機」の詳細全文を読む
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