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第二次ディープボトムの戦い : ウィキペディア日本語版
第二次ディープボトムの戦い[だいにじでぃーぷぼとむのたたかい]

第二次ディープボトムの戦い(だいにじディープボトムのたたかい、、またはファッセルのミルの戦い(特に南部で)、ニューマーケット道路の戦いベイリーのクリークの戦いチャールズシティ道路の戦いホワイトの酒場の戦いと様々に呼ばれる)は、南北戦争中の1864年8月14日から20日、バージニア州ヘンライコ郡のディープボトムで起きた戦闘である。6月に始まったピーターズバーグ包囲戦の中で起きた。
8月13日から14日に掛けての夜、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の指揮する軍隊がディープボトムでジェームズ川を渡り、アメリカ連合国の首都リッチモンドに脅威を与え、ピーターズバーグ、塹壕、およびシェナンドー渓谷から南軍を誘き出した。8月14日、北軍第10軍団がニューマーケット・ハイツに接近し、一方第2軍団がベイリーのクリークに沿って右翼に北軍の前線を伸ばした。この夜、第10軍団がファッセルのミルに近い北軍右翼に移動した。8月16日、北軍がミルの近くで攻撃して当初は成功したが、南軍が反撃して北軍を撃退した。数日小競り合いが続いた後、8月20日夜に北軍はジェームズ川の南岸に戻った。南軍は北軍を追い返すことで脅威を去らせるという目標を達したが、北軍が期待していたようにその勢力を散開させられることになった。
== 背景 ==
ディープボトムとは、リッチモンド市からは南東に11マイル (18 km)、ヘンライコ郡を流れるジェームズ川沿いで、ジョーンズネックと呼ばれる馬蹄形をした屈曲部近辺を地元で呼ぶ名称だった。この地点で川底が深かったのでこう呼ばれていた。川の南岸にあるバミューダハンドレッドからは都合のよい渡河地点だった〔Trudeau, p. 146.〕。
北軍ユリシーズ・グラント中将は、1864年6月15日から18日に南軍の防衛線に対する最初の攻撃(第二次ピーターズバーグの戦い)を掛け、突破に失敗した後、ピーターズバーグ市の包囲を始めた。北軍の騎兵隊がピーターズバーグに至る鉄道を遮断するために、6月22日から7月1日にウィルソンとカウツによる襲撃を行う一方で、グラントとその配下の将軍達はピーターズバーグの要塞に対する襲撃を再開する作戦を練った〔Salmon, p. 416; Davis, p. 69.〕。
7月27日から29日の第一次ディープボトムの戦いで、グラントはハンコック少将とフィリップ・シェリダン少将の指揮下にリッチモンド市と鉄道に脅威を与える遠征に送り、南軍をピーターズバーグの防衛線から誘き出すことが期待された。北軍の歩兵と騎兵の軍隊はベイリーのクリークとファッセルのミルで南軍の防衛線を突破できずに後退したが、一時的にピーターズバーグを守る南軍の戦力を減らすという目的は達した。ピーターズバーグに対して立てられた作戦は7月30日に決行されたが、そこで起こったクレーターの戦いは、グラントの部下達の判断の誤りが重なり、大きな損失を出して北軍の大敗となった〔Eicher, pp. 720-23; Salmon, pp 416-21.〕。
北軍がクレーターの戦いで敗北したのと同じ日、シェナンドー渓谷から出て行った南軍のジュバル・アーリー中将がペンシルベニア州チェンバーズバーグの町を焼き討ちし、メリーランド州やペンシルベニア州の町々、さらにはワシントンD.C.に対する脅威となった。南軍ロバート・E・リー将軍は、グラントがアーリーに対抗して行うであろう行動を心配していた。実際にグラントは8月第1週にシェリダン将軍を統合したシェナンドー軍の指揮官に指名し、約4万名の軍勢でアーリーに対抗させた。リーは、リチャード・H・アンダーソン中将軍団のジョセフ・B・カーショー少将の歩兵師団と、フィッツヒュー・リー少将の指揮する騎兵師団をカルペパーに派遣し、アーリーを支援するか必要に応じてリッチモンド・ピーターズバーグの戦線に呼び戻すことのできるようにしていた。グラントはこの動きを誤解し、アンダーソンの全軍団がリッチモンドの付近から外れたと考え、ジェームズ川の北には約8,500名しか残っていないとみていた。グラントは再度南軍の首都リッチモンドに兵を進めて見ることにした。これはアーリーを支援する援軍を防ぐか、あるいは再度ピーターズバーグの防衛線の戦力を薄くする効果があると考えられた〔Davis, p. 95; Trudeau, pp. 142-43.〕。
この遠征ではハンコックがこの時も上級将官だった。8月13日、デイビッド・B・バーニー少将の指揮する第10軍団、デイビッド・グレッグ准将の騎兵師団、およびハンコックの第2軍団砲兵隊がバミューダハンドレッドからディープボトムまで舟橋を渡った。一方第2軍団の残りは、ハンコック軍がシェリダンの支援のために北に派遣されると南軍に思わせる策略を実行していた。うだるような暑さの中をシティポイントまで大変な行軍を行った後、その間に多くの兵士が熱射病で倒れており、船に乗せられてチェサピーク湾の方向に送られたが、その兵士の多くは実際の目的地を知らなかった。その船隊の後をタグボートが追いかけ、新しい命令を持ってきたので、輸送船は方向転換し、8月13日から14日の夜にディープボトムで第2軍団を降ろした。その上陸は管理がまずかったので、スケジュールより遅れた。グラントの参謀は喫水の深い蒸気船を扱える適切な桟橋を用意していなかった〔Trudeau, pp. 147-50; Davis, pp. 95-97; Horn, pp. 120, 127.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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