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第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、およびイタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、および中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本と米英との開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。 第一次世界大戦との比較では、ともに総力戦であったが相違もあった。世界規模の戦場拡大は無線通信を用いた機動戦の結果である。これは、一次大戦が塹壕戦とケーブル切断を主体に展開されたのと最も対照される。無線は電信と違い傍受されたので、暗号解読により主要な戦果がもたらされた。〔Daniel R. Headric ''The Invisible Weapon: Telecommunications and International Politics, 1851-1945'', Oxford University Press, 1991, Chapter 12. Communications Intelligence in World War Ⅱ〕 記事最後に付された「日本の戦時法令」の殆どが未作成項目である点については、さしあたりアジア歴史資料センターが手近な情報源と考える。 ==概要== 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したことが第二次世界大戦の始まりとされている。同8月23日に秘密条項を持った独ソ不可侵条約が締結され、9月1日早朝 (CEST) 、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、9月3日にイギリス・フランスがドイツに宣戦布告。9月17日にはソ連軍が東からポーランドへ侵攻し、ポーランドは独ソ両国により独ソ不可侵条約に基づいて分割・占領された。その後、西部戦線では散発的な戦闘のみが行われた(まやかし戦争)。1940年にノルウェー、ベネルクス、フランス等を次々と攻略し、ダンケルクの戦いで連合国をヨーロッパ大陸から追い出したほか、イギリス本土上陸作戦の前哨戦となる大空襲も行われた。 ソ連は、バルト三国及びフィンランドに領土的野心を示し、11月30日からフィンランドへ侵攻して冬戦争を起こした。この侵略行為を非難され国際連盟から除名されながらも〔Minus a Member at Time magazine on Monday, Dec. 25, 1939〕、1940年3月にはフィンランドから領土を割譲。ソ連はまず軍隊をバルト三国に駐留させ、1940年6月には40万以上の大軍で侵攻。8月にはバルト三国を併合した。 ドイツは、イタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成し、1941年6月にドイツ軍はソビエト連邦に侵攻。1941年12月8日(日本時間)には日本がマレー作戦と真珠湾攻撃を行ってイギリスとアメリカなどの連合国に宣戦布告した。自らの戦争を「大東亜戦争」と位置づけた日本は連戦連勝を続け、1942年にセイロン沖海戦やアメリカ本土空襲、オーストラリア空襲を行い、さらにイギリスの植民地であったマレー半島や香港、ビルマ、そしてオランダの植民地であったインドネシアからそれぞれを放逐した。さらにはイギリス海軍をインド洋から放逐しつつマレー半島に上陸し、さらにヴィシー政権側に着いたインドシナ半島に現地協力者政府を構築するなどして急速にその勢力を拡大し、アメリカ政府やオーストラリア政府が日本軍の自国本土上陸に対する対策を検討するほどになった。 しかし1943年にはドイツがスターリングラード攻防戦と北アフリカ戦線で敗北し、同年枢軸国は北アフリカを放棄しイタリアが降参する。太平洋戦線では1942年6月5日ミッドウェー海戦で大敗し半年間の攻勢が弱まった後も、日本が太平洋やインド洋などの各戦線でイギリス軍やアメリカ軍など複数の国からなる連合国に対して優勢を保ったものの、東はアメリカ本土西海岸沿岸、西はアフリカ大陸沿岸、南はオーストラリア北部、北はアリューシャン列島と補給線が国力を超えて伸びきった事などから1943年の中盤には連合国が次第に優勢となる。日本とアメリカ、オーストラリアやイギリス海軍が対峙したソロモン諸島の戦いでは、ガダルカナル戦で1943年1月4日大本営の撤退命令が正式に下り敗北が確定した〔戸部良一・寺本義也・鎌田伸一・ 杉之尾孝生・村井友秀・野中郁次郎著、「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」(中央公論社 1991年)p.67.〕ものの、その後もコロンバンガラ島沖海戦などの海戦では日本軍が連合国軍を下すなど一進一退の戦いが続いた。 しかし1944年には連合国がノルマンディー上陸作戦を成功させるほか、マリアナ沖海戦やインパール作戦に勝利するなど勢いが更に増し、枢軸国は次々と降伏。1945年にドイツ軍は総崩れとなり、追い込まれたヒトラーは4月30日に自殺。5月9日にドイツ国防軍は降伏して欧州における戦争は終結した。日本も1944年7月、8月のグアム・サイパン陥落により日本本土がB-29などによってアメリカ軍の戦略爆撃に晒される上に、アジア各地でのイギリス軍や中華民国軍に対する陸戦でも敗色濃厚となった。1945年5月に友邦ドイツが降伏した後は、わずか1国で世界のほぼ全ての国と対峙することになった日本は、同年3月の東京大空襲、6月の沖縄戦、8月6日に広島市への原子爆弾投下、8日のソ連軍の参戦、さらに9日の長崎市への原子爆弾投下を受けて、ようやく同月10日の御前会議で降伏の決定と諸外国への発表を行い、8月14日にポツダム宣言を正式に受諾、9月2日に降伏文書に調印した。 第二次世界大戦の戦域を大別する際、ヨーロッパ・北アフリカ・西アジアの一部を含むものと、東アジア・東南アジアと太平洋全域を含むものに分けられる。このうち、ドイツ・イタリア等とイギリス・フランス・ソ連・アメリカ等が戦った前者を欧州戦線、日本等とイギリス・アメリカ・中華民国・オーストラリア・ニュージーランド等が戦った後者は太平洋戦線、または特に「太平洋戦争」と呼称される。ヨーロッパ戦線はさらに、主にアメリカ・イギリス・フランスが枢軸国と戦った西部戦線および北アフリカ戦線と、ソ連と枢軸国が戦った東部戦線(独ソ戦)に大別される。太平洋戦線はアメリカ軍と日本海軍が戦った、オランダの植民地であったインドネシアなどで日本とオランダ軍やイギリス軍を含む連合国軍が戦った、ビルマなどで日本とイギリス軍などが戦った、そして中国大陸における日中戦争に大別される。しかしこれらの地域以外でも、中南米やカリブ海、マダガスカル島、インドシナ半島など世界各地で戦闘が行われた。 戦争は完全な総力戦となり、主要参戦国では戦争遂行のため人的・物的資源の全面的動員、投入が行われた。世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員され、主要参戦国の戦費はアメリカの3410億ドルを筆頭に、ドイツ2720億ドル、ソ連1920億ドル、イギリス1200億ドル、イタリア940億ドル、日本560億ドルなど、総額1兆ドルを超える膨大な額に達した。 戦闘機や戦車などの旧来型兵器の著しい発達に加えて長距離ロケットや原子爆弾などの「核兵器」という大量殺戮兵器が登場し、戦場と銃後の区別が取り払われた。史上最初の原子爆弾の投下を含む都市への爆撃、占領下の各地で実施された強制労働により、民間人および捕虜の多くが命を失った。またドイツは自国および占領地域においてユダヤ人・ロマ・障害者に対する組織的殺害を戦争と並行して進めており、これらはホロコーストと呼ばれる。こうした様々な要因による大戦中の民間人死者は総数約5500万人の半分を超える、3000万人に達することとなった。また大戦直後には、ドイツ東部や東ヨーロッパから1,200万人のドイツ人が追放され〔、その途上で200万人が死亡している。新たにソビエト領とされたポーランド東部ではポーランド人の追放が行われるなど大幅な住民の強制移住が行われた。アジア・太平洋では日本人強制送還が行われ、捕虜となった枢軸国の将兵や市民はシベリアなどで強制労働させられた。 戦争中から連合国では、国際連合などによる戦後秩序作りが協議されていた。しかし戦場となったヨーロッパ、日本の国力が著しく低下したこともあり、戦争の帰趨に決定的な影響を与えたソビエト連邦とアメリカ合衆国の影響力は突出し、極めて大きなものとなった。こうして両国は世界を指導する超大国となったが、やがて対立するようになり、長い冷戦時代の構図をもたらした。アジアやアフリカの旧植民地では独立運動の動きが高まり、多くの国が独立することになり、英仏など欧州列国の地位は著しく低下したが、多くの国は冷戦構造の影響を受けずにはいられなかった。こうした中で、相対的な地位の低下を迎えた西ヨーロッパでは大戦での対立を乗り越え欧州統合の機運が高まった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次世界大戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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