|
第二次内乱(だいにじないらん、683年 - 692年)は、ウマイヤ朝時代に起こったイブン・アッズバイルとウマイヤ朝カリフとのカリフ並立時代。 イブン・アッズバイルのカリフ即位から、アッズバイルがウマイヤ朝カリフであるアブド・アルマリクによってメッカで戦死を遂げるまでの9年間を指す。 ==経過 == 第一次内乱後、ウマイヤ朝カリフ・ヤズィード1世の死後、その跡を継いで ムアーウィヤ2世が即位したのをきっかけに、イブン・アッズバイル(アブド・アッラーフ・ブン・アッズバイル)はメッカでカリフに即位し、ウマイヤ朝から独立する。 アッズバイルの父はラクダの戦いで戦死したズバイルで、母は初代正統カリフ、アブー・バクルの長女という、カリフを称するのには非常に有利な生まれだったが、彼のカリフ宣言後、ウマイヤ家に不満を抱く各地のムスリム(ヨルダン以外のシリア、イラク、エジプトなどの)が彼のもとに忠誠の誓い(バイア)をし、2人のカリフが存在するという状態が起こった。 そして、イブン・アッズバイルはイラク、エジプトでカリフとなり、シリアの半分以上をその最大勢力範囲にするほど勢力が伸張したが、その後アブド・アルマリクのもとで攻勢に転じたウマイヤ朝によって、その領地は取り返されていき、最後にアッズバイルの領地は聖地メッカ周辺だけになった。 ウマイヤ朝カリフ、アブド・アルマリクは、ハッジャージュ・ブン・ユースフ司令官の2千のウマイヤ朝軍をメッカのイブン・アッズバイルのもとに差し向け、メッカを包囲、弩弓による投石でメッカの守備隊、カーバ神殿などを攻撃させた。そのため、メッカの守備隊は苦戦を強いられ、壊滅した。カーバ神殿も大きく被害を受けた。 692年、こうした中で、イブン・アッズバイルはハッジャージュ・ブン・ユースフによって、メッカを6ヶ月包囲されたのち、戦死を遂げた。 その後、ウマイヤ朝は統一と繁栄を手に入れ、アブド・アルマリクから第10代ヒシャームまでの黄金時代を現出する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第二次内乱 (イスラーム史)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ibn al-Zubayr's revolt 」があります。 スポンサード リンク
|