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東トルキスタン共和国(ウイグル語:شەرقىي تۈركىستان جۇمۇھۇرىيىتى、英語:Sherqiy Türkistan Jumuhuriyiti)は、テュルク系イスラム教徒によって、20世紀前半に中華民国の新疆省であった中央アジアの東トルキスタン地方において樹立された政権である。 * 東トルキスタン西南部のタリム盆地カシュガルを中心とした第1次東トルキスタン共和国(1933年~1934年)、 * 東トルキスタン北部のイリ・タルバガタイ・アルタイの3区を拠点とした第2次東トルキスタン共和国(1944年~1946年) があり、歴史上2度にわたり、それぞれ別々の地域を拠点として樹立され、いずれも一定の期間、東トルキスタンの一部において実効的な独立政権を実現した。現在はアメリカ合衆国に東トルキスタン共和国亡命政府の本部が置かれており、中国を侵略者であるとしている〔。 中国では「東トルキスタン共和国」という名称を使用することは避けられ、三区革命と呼ばれる。 == 第1次東トルキスタン共和国 == 1933年から1934年にかけて存在した第1次の東トルキスタン共和国は、1930年代始めに東トルキスタンを支配していた新疆省政府に対してウイグル人が主体となって現地のイスラム教徒の独立運動を糾合し、タリム盆地西南部のカシュガルに建設された政権である。1920年代に、第一次世界大戦後のロシア内戦とシベリア出兵の結果、大量のロシア人が中央アジアに流入し、その一部は中国領内に流入してテュルク人社会を形成した。この政権の発足は、これらの人々が傭兵として独立運動に参加し、軍事力を提供した四・十二クーデーターが契機であった。 File:First ETR in China.svg|第1次東トルキスタン共和国の実効支配域 File:Flag of the First East Turkestan Republic.svg|東トルキスタン共和国国旗 1928年、蒋介石の南京国民政府が楊増新を新疆省長に任命したが、樊耀南(Fan Yaonan)に暗殺されると金樹仁が権力を掌握した。金樹仁の5年間の新疆統治がもたらした腐敗と圧制は、民族・宗教間の紛争を一気に表面化させた。1931年、ハミのホージャ・ニヤーズがウルムチで蜂起。金樹仁はホージャ・ニヤーズ討伐に盛世才の部隊を派遣した。盛世才率いる省政府軍は反乱軍を撃破。ハミのホージャ・ニヤーズらに率いられた反乱勢力は西方へ逃亡した。1932年、新疆に進出してきた甘粛省のイスラム教徒(回族)軍閥である馬仲英が率いる馬家軍がトゥルファンで反乱を起こしたが、これも盛世才に撃破された。1933年4月12日、参謀処長陳中がイリへ逃れてきていた白系ロシア人と満州族の傭兵(帰化軍)を擁して蜂起(四・十二クーデーター)。金樹仁はソ連に亡命。 1933年6月、馬仲英が再び侵攻し、ハミ、木塁河、古城で漢族を虐殺した。ウルムチから送られた呉藹宸と和平案を締結し、ハミを馬仲英に与える事で一旦合意した。しかし、すぐに戦闘が再開され、馬仲英軍に帰化軍が圧倒され、滋泥泉まで押し込まれた。にわかに雪が降ると雪に慣れていた東北抗日義勇軍〔東北抗日義勇軍は満州事変でソ連領内に逃げ、シベリア鉄道で中央アジアから新疆省に入った一団で、後に結成された東北抗日聯軍とは別の組織。〕が馬仲英軍を撃破し、馬仲英は西のソ連領に逃亡した。6月26日ウルムチでクーデターを企てた、李笑天、陶明樾が粛正された。7月、馬仲英とホージャ・ニヤーズが交戦し、馬仲英がトクスンを占領し、ホージャ・ニヤーズは脱出した(トクスンの戦い)。8月1日、盛世才が新疆辺防督弁に正式に任命された。10月、盛世才は同様に東北抗日義勇軍の指導者鄭潤成を銃殺し、同軍を解散させた。 回族軍閥の侵入を受けなかったタリム盆地南部のホータンでも、1933年初頭にムハンマド・アミーン・ブグラらが、在地の宗教指導者をリーダーに戴き、反乱を起こした。ホータンの反乱軍は漢族の官吏を追放してホータンを支配すると、西のヤルカンド、カシュガルへ進軍し、ハミ、トゥルファンから逃亡してきたホージャ・ニヤーズらの勢力を糾合して11月12日に東トルキスタン・イスラーム共和国の建国を宣言した。 共和国の大統領には、ハミの勢力を代表しホージャ・ニヤーズが、首相にはホータンの勢力を代表しサービト・ダーモッラーが就任した。彼らはイギリス、トルコなどの諸外国の承認を得て独立を国際的に認めさせようとしたが失敗している。 盛世才の新疆省政府は、トゥルファンを占拠する馬仲英にウルムチを脅かされていたが、ソビエト連邦に介入を要請。翌1934年の初頭に新疆に入ったソ連軍によってトゥルファンを追われた馬仲英の軍は、ホータンに侵攻し、東トルキスタン・イスラーム共和国の軍隊を壊滅させた。 共和国崩壊を受け、大統領のホージャ・ニヤーズは、ソ連を通じて省政府督軍の盛世才と交渉を行い、首相のサービト・ダーモッラーを新疆省政府に引渡し、自らは省政府副主席に就任し、盛世才率いる省政府に寝返った〔小松編, pp.373-377.〕。 宗教指導者に率いられた第1次東トルキスタン共和国の設立に中心的に活躍したのは、ロシア領の西トルキスタンで1910年代に行われたジャディード運動に影響を受けた商人・知識人層であり、20世紀初頭から始まった東トルキスタンの民族運動のひとつの結実を示す事件であった。 1934年3月、国民政府が盛世才を新疆省政府主席に任命すると、盛世才はホージャ・ニヤーズを省政府副主席に任命した。1936年に盛世才が新疆省への入境に査証を義務化して、中国内地からの影響を遮断し、事実上独立国とした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東トルキスタン共和国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Second East Turkestan Republic 」があります。 スポンサード リンク
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