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范仲淹[はんちゅうえん]
范 仲淹(はん ちゅうえん、989年(端拱2年) - 1052年(皇祐4年))は、中国・北宋の政治家、文人。字は希文、諡は文正。 == 略伝 == 蘇州呉県(江蘇省蘇州市)の出身。2歳の時に父を失って母が長山(山東省鄒平県)の朱氏に再嫁したのでその姓に従い、名を説と改めたが、成長して生家を知るとともに本姓にもどした。應天府に行って苦学し、1015年に大中祥符中進士に及第して広徳軍司理参事となり晏殊に薦められて秘閣校理となり、つねに天下のことを論じて士大夫の気節を奮いたたせていた。仁宗が親政の時にあたって中央で採用され吏部員外郎となったが、宰相の呂夷簡に抗論して饒州に左遷された。以後、彼を支持した余靖・尹洙・欧陽脩も次々と朝廷を去り、自らを君子の朋党と称した。1038年に李元昊が西夏をたてると、轉運使として陝西をその侵攻から防ぎ辺境を守ること数年、号令厳明にして士卒を愛し、羌人は仲淹が龍圖閣直学士であることから「龍圖老子」と呼び、夏人は戒め合ってあえて国境を侵すことなく「小范老子、胸中自ずから数万甲兵あり」と恐れはばかった。そうした功績により諫官をしていた欧陽脩が推薦し枢密副使・参知政事となった。仲淹は富弼とともに上奏して、1.黜捗を明らかにし、2.僥倖を抑え、3.貢挙を精密にし、4.長官を厳選し、5.公田を均一にし、6.農桑を厚くし、7.武備を修め、8.恩信を推し、9.命令を重んじ、10.徭役を減ずる、などの十策を献じ施政の改革を図ったが、当時はすでに朋党の争いが弊害をあらわしており彼の案も悦ばれず、河東陝西宣撫使として出向し戸部侍郎などを歴任した。穎州に赴任する途上で没する。兵部尚書を追贈された。 宋代士風の形成者の一人で、六経・易に通じ常に感激して天下を論じ一身を顧みなかったという。散文に優れ『岳陽楼記』中の「天下を以て己が任となし、天下の憂いに先んじて憂え、天下の楽しみにおくれて楽しむ(''先憂後楽''、後楽園の由来)」は特に名高い。著書に『范文正公詩余』『范文正公集』24巻がある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「范仲淹」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Fan Zhongyan 」があります。
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