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筑紫 哲也(ちくし てつや、1935年(昭和10年)6月23日 - 2008年(平成20年)11月7日)は、日本のジャーナリスト、ニュースキャスター。 朝日新聞社記者、朝日ジャーナル編集長、TBSテレビ『筑紫哲也 NEWS23』メインキャスター、早稲田大学大学院公共経営研究科客員教授(専任扱い)、立命館大学客員教授、市民団体・自由の森大学「学長」等を歴任。また、雑誌 『週刊金曜日』編集委員、『潮賞』(雑誌 『潮』)「ノンフィクション部門」選考委員も務めていた。 == 来歴 == === 生い立ちと朝日新聞社時代 === 1935年(昭和10年)、大分県日田市生まれ。東京都立小山台高等学校を経て、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。 大学在学中は合唱団「グリークラブ」に所属していた。卒業後は朝日新聞社に入社、政治部記者、琉球(現在の沖縄)特派員、ワシントン特派員、外報部次長、編集委員などを歴任した。政治部時代には当時内閣総理大臣の三木武夫の番記者を務め、自民党ハト派との人脈と親交を広げた。入社同期に轡田隆史がいる。 朝日新聞外報部デスクとして『さて今週は、閑話・徹子と記者クラブ』(1977年(昭和52年)11月6日放送)にゲスト出演した後、1978年(昭和53年)4月から1982年(昭和57年)9月までテレビ朝日『日曜夕刊!こちらデスク』のメインキャスターを務めた。同時期、朝日新聞社のCMで『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ番組『夕刊タモリ!こちらデス』(現在の『タモリ倶楽部』の前身)の司会者だったタモリと共演した。 司会者を務めていた頃、“宇宙人と交信しました”というニュースを伝えた。伝えた日は1979年(昭和54年)4月1日だった。エイプリルフールのジョークとして伝え、すぐに「ウソです」と言ったが、直後に抗議の電話が殺到し、生放送中に抗議の電話に応対する事態となった。この件については後に新聞で取り上げられた。 1984年(昭和59年)から1987年(昭和62年)まで、雑誌『朝日ジャーナル』の編集長を務めた。「若者たちの神々」「新人類の旗手たち」「元気印の女たち」の連載で、当時の若者のリーダーたちにインタビューし、対談を通じて時代の気分を探ろう・表し出そうと試みた。この連載などで新人類なる言葉は世に広がった。シリーズ「日常からの疑問 こんなものいらない」の代表記事は『現代無用物事典』および『こんなものいらない事典』(いずれも新潮社)として出版され、話題を呼んだ。1984年4月からTBSラジオで筑紫哲也ニュース・ジョッキーのパーソナリティを務める。 ニューヨーク勤務の1989年(平成元年)夏、再度TBSからの打診〔筑紫拓也さん(1) 23キャスター就任、悩む父の背中を押した - 特集 - BOOK asahi.com(朝日新聞社) 2010年11月5日〕を受け朝日新聞社を退社。同年10月に『筑紫哲也 NEWS23』を開始することとなる。〔『ニュースキャスター』(筑紫哲也著、集英社新書・2002年)、『無名記者の挽歌』(中島清成著、中央公論新社・2009年)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「筑紫哲也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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