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筑紫地震(つくしじしん)は、飛鳥時代後期(白鳳時代)に九州北部で発生した大地震。『日本書紀』に記述されており、震源域がほぼ判明しているものとしては日本最古の歴史地震である。 『日本書紀』には筑紫地震前後から地震の記述がしばしば登場し、本地震の約6年後には南海トラフ巨大地震である白鳳地震が発生している。 == 地震の記録 == 天武天皇7年〔かつて壬申の乱のあった672年を弘文天皇元年、翌年(673年)を天武天皇元年とする見方もあり、筑紫地震発生を天武天皇6年と記載する史料も存在するが(『大日本地震史料』)、現在では『日本書紀』の記述通りとするのが一般的である(『地震の事典』)。〕12月中(ユリウス暦679年1月18日 - 2月15日、グレゴリオ暦679年1月21日 - 2月18日の間)に筑紫国を中心に大地震が発生した。地震の発生日は不明である。 巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、その上にあった家は移動したが破壊されることなく家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたという〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店〕。 * 『日本書紀』巻第二十九 また『豊後国風土記』によれば五馬山が崩れて温泉が所々で噴出し、そのうち1つが間欠泉であったという〔東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 一巻』 日本電気協会、1981年〕。戊寅年は天武天皇7年である。 この地震の条項「十二月是月」の直前にある『日本書紀』12月27日の条項には、臘子鳥(あとり)〔スズメ目、アトリ科の鳥〕が天を覆って西から東北方向へ移動したとあり、宏観異常現象の1つと考える説もある〔日本地震学会地震予知検討委員会編 『地震予知の科学』 東京大学出版会、2007年〕。 河角廣は本地震に対し規模''M''K = 3.6を与え〔Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482〕、マグニチュード ''M'' = 6.7に換算されている。宇佐美(2003)は ''M'' = 6.5 - 7.5〔宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年〕 と巾を広く取っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「筑紫地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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