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筑紫広門 : ウィキペディア日本語版
筑紫広門[つくしひろしもん]

筑紫 広門(つくし ひろかど)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名筑後国上妻郡の国人領主で、肥前国勝尾城主。なお、妻は高橋紹運の妻と姉妹関係にある。
== 生涯 ==
父の筑紫惟門大友氏に降伏し、まもなく没したため(自害説もある)家督を継ぐ。耳川の戦いの後に反旗を翻すなど大友氏に反抗的であったが、天正14年(1586年)には高橋紹運の次男・高橋統増(立花直次)に娘を嫁がせて縁戚となり、再び大友氏の傘下となった。そのため、同年に起こった岩屋城の戦いの際には大友氏に味方し、島津氏に攻められて領地を奪われた。この際の肥前鷹取城攻防戦では、弟の筑紫晴門(右衛門大夫)は大手口で戦死し、続いて筑前高鳥居城にも子の春門(左衛門丞)は島津方の川上忠堅と壮絶な一騎討ちを演じて相討ちとなり、自身も島津軍の捕虜となって筑後大善寺に幽閉されてしまうが、翌年に豊臣秀吉九州平定がはじまり、島津軍が撤退すると幽閉先から脱出し、家臣を集めて旧領を奪回。その功を賞されて、筑後国上妻郡に18,000石の所領を与えられた。
文禄元年(1592年)から始まる文禄・慶長の役にも参陣し、小早川隆景の配下の部隊として奮戦する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属して京極高次が守る大津城を攻めた。西軍主力が関ヶ原で敗戦した後、徳川家康によって筑紫氏改易された。その後は剃髪して夢庵と号し黒田長政加藤清正を頼り、加藤家改易後は細川氏を頼った。死後、息子の筑紫主水正広門は、大坂の陣の戦功で寛永4年(1627年)に3,000石の所領を与えられ、子孫は3,000石の旗本として存続した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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