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筒井 信隆(つつい のぶたか、1944年11月10日 - )は、日本の政治家。民主党所属の元衆議院議員(5期)。元農林水産副大臣。 == 略歴 == 新潟県中頸城郡三和村生まれ。新潟県立柏崎工業高等学校機械科、早稲田大学法学部卒業。 1967年、22歳で司法試験に合格。司法修習第22期(同期に木村晋介や弘中惇一郎)を修了し、1970年に筒井法律事務所を開業。その後、日本社会党衆議院議員の木島喜兵衛の知己を得、引退する木島に代わって出馬するため、新潟県上越市に移る。 1986年、第38回衆議院議員総選挙に日本社会党公認で旧新潟4区から出馬したが、次点で落選した。1990年、第39回衆議院議員総選挙に再び旧新潟4区から出馬し、初当選。 当選後、社会党の一年生議員を中心にニューウェーブの会を設立し、事務局長に就任。ニューウェーブの会は、与党・自由民主党に反対するばかりで対案を出さない社会党を旧弊な体質から脱皮させるべく結成された議員グループであったが、結局党改革は成し遂げられないまま終わった。 1992年2月、東京佐川急便からの献金が発覚。すべての党役職を辞任する。同年、元首相の竹下登に対する証人喚問要求にからみ、筒井に対する喚問要求も行われるも、結局不問に終わる。 1993年の第40回衆議院議員総選挙では新党ブームの煽りを受け、138票差の次点で落選した。 1996年の第41回衆議院議員総選挙では社会党を離党し、新進党、旧民主党の推薦を受けて無所属で新潟6区から出馬したが、自民党の高鳥修に敗れ、落選した(この選挙で筒井が獲得した103,307票は落選者のうち最多)。その後民主党に入党。2000年の第42回衆議院議員総選挙では、民主党公認で新潟6区から出馬。コスタリカ方式により、新潟6区には高鳥修に代わって自民党の白川勝彦が立候補したが、白川は、2000年3月に元私設秘書が交通違反の揉み消しを行い、公電磁的記録毀棄の罪に問われたスキャンダルが災いし落選。筒井は7年ぶりに国政に復帰した。2003年の第43回衆議院議員総選挙では、引退した高鳥修に代わって出馬した高鳥修一を破り、3選。 2005年の第44回衆議院議員総選挙では民主党が苦戦する中、新潟6区で4選(高鳥修一も比例復活)。 2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では、自民党の高鳥に比例復活すら許さず、新潟6区で5選。 2010年9月、菅第1次改造内閣で農林水産副大臣に就任し、2011年1月発足の菅第2次改造内閣でも留任。同年3月7日、内閣支持率の低迷する菅内閣について「内閣支持率がどんどん下がる状態が続くなら、辞任も有り得る。辞任ということは内閣総辞職だ」と述べ、閣内から公然と退陣に言及した。 2011年8月の菅内閣退陣に伴う民主党代表選挙では農林水産大臣・鹿野道彦の推薦人に名を連ねる。鹿野は敗北したものの、筒井はその後の鹿野グループ結成に参加した。同年9月に成立した野田内閣で農林水産副大臣に再任。2012年9月民主党代表選挙では川上義博らと「女性宰相を誕生させる会」を発足させ、田中眞紀子を総理大臣にしようとした〔「田中真紀子首相」はあるのか? 民主議員に担ぎ出しの動き J-CASTニュース2012年08月29日19時27分 〕が、田中が民主党代表選挙への出馬を拒否したため頓挫した。 2012年12月の第46回衆議院議員総選挙では、前回下した高鳥に敗れ、比例復活もならず落選。2013年9月、政界を引退した〔筒井信隆前衆院議員が政界引退 上越タウンジャーナル 2013年9月2日 2014年4月26日閲覧〕。 2015年春の叙勲で旭日重光章受章。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「筒井信隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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