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筒井康隆 : ウィキペディア日本語版
筒井康隆[つつい やすたか]

筒井 康隆(つつい やすたか、1934年(昭和9年)9月24日 - )は、日本小説家劇作家俳優である。ホリプロ所属。身長166cm〔2010年11月23日の!『筒井康隆作家生活五十周年記念〜現代語裏辞典ライブ』でWikipediaの内容を修正するコーナーでは「166.5cm」だと発言している。〕。小松左京星新一と並んで「SF御三家」とも称される。パロディやスラップスティックな笑いを得意とし、初期にはナンセンスなSF作品を多数発表。1970年代よりメタフィクションの手法を用いた前衛的な作品が増え、エンターテインメントや純文学といった境界を越える実験作を多数発表している。
戦国時代の武将筒井順慶と同姓であり、その子孫であるとの設定で小説「筒井順慶」を書いている。先祖は筒井順慶家の足軽だったらしい、と筒井は述べている。父は草分け期の日本の動物生態学者で、大阪市立自然史博物館の初代館長筒井嘉隆。息子は画家筒井伸輔
== 経歴 ==

=== 大学卒業まで ===
1934年(昭和9年)、父・筒井嘉隆と母・八重の長男として、父方の実家である大阪府大阪市北堀江〔八橋一郎・堀晃らにより、詳細が確認されている(http://www.jali.or.jp/hr/mad17/mad614-j.html#20151008-2)〕に出生。生家は住吉区山坂町(現在の東住吉区山坂)。筒井は初期に自筆年譜を書き、船場生まれとしていたが、これは複数の勘違いが重なった事〔両親が「船場の近く」と言わずに「船場」と言っていたことと、出生地が川の近くだったことから船場生まれだと完全に思い込んでいた。1976年頃に香村菊雄の「船場ものがたり」を読んでいて間違いに気づいた。(国文学 解釈と鑑賞1981年8月号)〕によるもので、その後修正されている。後に弟が3人(正隆、俊隆、之隆)生まれ、男ばかりの兄弟で育つ。1941年(昭和16年)、南田辺国民学校に入学。幼少期から漫画と映画に没頭し、小学生時代は『のらくろ』、エノケンに熱中。自分でも漫画を描いて他の子供に売りつけるなどしていた。また父が蔵書家であったことから読書好きとなり、小学生の頃は江戸川乱歩を愛読した。1944年(昭和19年)、吹田市千里山に学童疎開し、千里第二国民学校に転校。地元の農家の子供から苛烈ないじめを受ける。終戦後の1946年(昭和21年)、息子の成績不振を心配した父の計らいで大阪市立中大江小学校に転校。まもなく実施された知能検査で市内トップのIQ178であることが判明し、終戦後、当時大阪市によって設置されていた特別教室〔『筒井康隆作家生活五十周年記念~現代語裏辞典ライブ』2010.11.23 18:00~20:20 東京カルチャーカルチャー 〕(政府設置の特別科学学級とは異なる)に在籍した。
1947年(昭和22年)、大阪市立東第一中学校(現在は統合で大阪市立東中学校)に入学。この頃から不良少年となり、授業をさぼって映画館に通い詰める。父親の金をくすねたり、父親の蔵書や母親の着物を勝手に持ち出して古書店や質屋に売り映画代を捻出していた〔この時期については筒井『不良少年の映画史』に詳しい。また、出演している朝日放送『ビーバップ!ハイヒール』2014年9月25日放送分でもこのエピソードが取り上げられた。〕。その一方で手塚治虫に熱中し、赤塚不二夫藤子不二雄などとともに『漫画少年』誌の投稿欄の常連でもあった。1948年(昭和23年)、児童劇団「子熊座」に入団、演劇への興味が芽生える。1950年(昭和25年)、大阪府立春日丘高等学校に入学。演劇部の部長を務めるが学業は不振であった。春日丘高校はもともと女学校であったため女生徒の数が多く、筒井はここで女生徒からいじめを受けて女性への恐怖心を植え付けられたとしている〔筒井『笑犬樓よりの眺望』より『女が逆セク・ハラに走るとき』(初出:『噂の眞相』1990年2月号)〕。また、自宅の蔵書だったアルトゥル・ショーペンハウエルの『随想録』も愛読していたという〔筒井『漂流 本から本へ』P74〜76〕。この頃マルクス兄弟の映画に傾倒。受験勉強への反発から新潮社版世界文学全集を読破し、サルトルトーマス・マンの作品に影響を受ける。
1952年(昭和27年)2月、関西芸術アカデミー研究科に研究生として入学。同年4月、同志社大学文学部心理学科〔遠藤瓔子『青山「ロブロイ」物語』p.114(世界文化社、1987年)によると、筒井は「ぼくは心理学科にいましたよ。途中で美学に移ったけど」と発言したことになっている。同志社大学心理学科の教授だった遠藤の父も「筒井は確かに最初心理にいた」と確認したという。〕に入学し、同志社小劇場に所属する。この頃カフカアルツィバーシェフヘミングウェイ等を愛読し影響を受けた。また潜在意識について興味を持ち、吹田市の実家から京都市までの電車での通学時間を利用して、日本教文社版のフロイト全集を読破。その後美学美術史学科に転じシュルレアリスムに興味を持つ。1954年(昭和29年)、関西芸術アカデミーを卒業して青年劇団「青猫座」に入団。初舞台は飯沢匡の『北京の幽霊』。同年日活のニューフェイスに応募するも、面接のみの二次試験で落選している。しかし「青猫座」での演技は高評価を受け、1955年(昭和30年)、大阪毎日会館で『二十日鼠と人間』主役を演じた際には、「東の仲代達矢、西の筒井康隆」と新聞に報じられた。1957年(昭和32年)、大学を卒業。卒論は「心的自動法を主とするシュール・リアリズムにおける創作心理の精神分析的批判」。卒業後、展示装飾などを手がける乃村工藝社に入社し営業部に勤務。サラリーマン劇団「明日」に入団し演劇活動を継続する。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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