|
高橋 義雄(たかはし よしお 、1861年10月2日(文久元年8月28日) - 1937年(昭和12年)12月12日)は、日本の実業家。茶人・高橋 箒庵(そうあん)としても知られる。 == 略歴 == 水戸藩士・高橋常房の四男として生まれたが明治維新により生活困窮に陥り、13歳で植田村の呉服店「近藤」に丁稚奉公に出される〔『豪商の雇人時代 : 商人立志』墨堤隠士 著 (大学館, 1905) 〕〔高橋義雄 著 (箒文社, 1915)〕。3年奉公したが耐え難く実家に戻り、以降各所に居候しながら学ぶ〔。1878年(明治11年)ごろは水戸の漢学塾・自彊舎に通った〔慶應義塾・福沢諭吉 時事新報史 第12回:水戸出身記者の入社 都倉武之、慶応義塾大学出版会、2007年1月31日〕。茨城中学卒業後地元で就職するつもりだったが、福沢諭吉が新聞事業のため文章のうまい学生を探しているという話を聞き、上京〔。1881年(明治14年)慶應義塾に入学して約一年間学んだ後、1882年(明治15年)5月に、友人の石河幹明、井坂直幹らとともに、福澤率いる時事新報の記者になった〔。生糸売買で成功した前橋の商人下村善太郎と知り合い、実業視察のための洋行話を取り付け、下村の援助で1887年(明治20年)9月に渡米〔。 。 。三井家の重役のなかでもとくに勢力があり、贅沢な暮らしぶりで知られた〔。 1911年(明治44年)、50歳のときに実業界を引退し、以後は茶道三昧の生活を送り、風雅の道を通じて各界の名士と広く交際した〔伊藤隆編 『山県有朋と近代日本』 吉川弘文館 2008年 についての小宮一夫による 書評 〕。 『大正名器鑑』、『東都茶会記』など、茶道に関する著作が多数ある。 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高橋義雄 (茶人)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|