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常盤山 小平治(ときわやま こへいじ、1826年〈文政9年〉 - 1869年10月2日〈明治2年8月27日〉)は、常盤山部屋及び玉垣部屋に所属した元力士〔http://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3383&l=j〕。鷲ヶ濱音右エ門の岳父に当たる。 本名,身長,体重は不明。出身地は現在の長崎県南島原市(旧・肥前国高来郡)。 最高位は西関脇。1851年4月~1852年閏2月は八戸藩,1852年11月以降は島原藩のお抱えだった。岳父が自殺して嫌疑を受けたので脱藩したが途中で参勤行列と出合い、運良く同郷の者が居たので一行に加えてくれるように頼み、怪力を買われて駕籠担ぎとして加わった。江戸に出てからは仲間として働いていたが怪力を見出され、勧誘されて入門した。 1846年3月初土俵(序ノ口)。1853年11月東二段目9枚目にあがり、現在でいう十枚目昇進を果たす。1856年11月新入幕。幕内に入っても順調に白星を重ね、1860年11月新三役(西小結)に昇進した。そこから9年・18場所連続に渡って三役を務め、強豪力士として鳴らした〔入幕順幕内力士一行紹介・十六 - 相撲評論家之頁 ※0452 鷲ヶ濱 音右エ門の項を参照。〕。堅太りの小兵で、巧い取り口だったと伝わる。1862年3月に関脇に昇進。雲龍久吉に強く、実力大関だったが、番付運が頗る悪く遂に大関昇進は叶わなかった。1866年11月に8代常盤山を襲名し、二枚鑑札となった。1869年8月27日に現役中のまま死去。44歳だった。 幕内通算26場所 99勝33敗93休13分5預の成績を残した〔。優勝相当成績2回(幕内1回〈1865年2月〔当時の四股名は、鷲ヶ濱 音右エ門だった。〕〔他に1863年11月に西小結で7勝0敗2分,1864年4月に西関脇で7勝1敗1預1休と優勝同点の成績を残しているが、いずれも番付上位者優勝制度により(1863年11月は鬼面山谷五郎〈当時東関脇。のち第13代横綱。この場所7勝0敗2分〉。1864年4月は不知火光右衛門〈当時西大関。吉田司家より横綱免許を貰っていたため第11代横綱でもあった。この場所7勝1敗2休〉)優勝をさらわれている。〕。全勝だった。〉十両1回〈1853年11月〉)の好成績を残している。 酒豪で物事に無頓着であり、常に文無しだった。「裸関取」というあだ名もあった〔。 改名歴は2回ある:簑島 邦五郎 → 鷲ヶ濱 音右エ門 → 常盤山 小平治(鷲ヶ濱時代が最も強かった)〔 == 出典 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「常盤山小平治 (幕末)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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