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菅野直[かんの なおし]
菅野 直(かんの なおし、1921年(大正10年)9月23日 - 1945年(昭和20年)8月1日)は、日本の海軍軍人。海兵70期。太平洋戦争における撃墜王。戦死認定による二階級特進で最終階級は海軍中佐。 == 生涯 == 1921年(大正10年)9月23日、警察署長である父の赴任先の竜口(現北朝鮮平壌近郊)に次男として生まれる。宮城県伊具郡枝野村(現角田市)で育ち、両親の出身もこの近郊である〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p35-36〕。優等生であった長兄の巌を敬愛し、兄弟喧嘩もなかった。また、厳格な母の代わりに7つ上の姉のかほるを慕い、中学一年まで添い寝することもあった。兄や姉には従順であったが、外では明るく喧嘩も強いガキ大将であり〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p40-41〕、兄がいじめられると敵討ちに向かう強気な一面も持ち合わせていた〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p25〕。七、八歳の時に近所の猛犬と格闘になって最後にナイフで突き殺したこともある〔源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫p362〕。しかしそんなガキ大将の菅野も夜は遅くまで勉学に励み、クラスでは常にトップクラスの成績であったため、周囲はあのガキ大将がいつどこで勉強しているのか不思議に思ったという。 角田中学校に一番の成績で入学〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p22-23〕。当時の下級生は「やることが奇抜で、我々の想像もつかないことをやった。ケンカをすれば絶対負けなかったし、修身とか素行の点はあまりよくなかったかも知れないが、人気は絶大だった」と語ってる〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p45〕。また、同級生は「どちらかというと菅野は軟派(文学男子)であった」と語っている。菅野は中学で、石川啄木に傾倒して短歌を好み、同級生と文学サークルを作るほどの文学少年であった〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p22-25〕。当時河北新報の文芸欄に投稿した菅野の短歌が入選している〔豊田穣『新蒼空の器 大空のサムライ七人の生涯』光人社 40頁〕。中学4年時、菅野は大学受験の勉強に励んでいたが、経済的な事情から「お兄ちゃんは大学に進んだ方がいい。僕は軍人になるから」と言って軍人になることを決意した〔碇義朗『最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長菅野直の生涯』光人社NF文庫p77〕。 1938年(昭和13年)12月、海軍兵学校70期に入校。同期に関行男、中津留達雄、角田中学の同級生小島光造らがいる。1941年11月15日海軍兵学校卒業、少尉候補生として配属艦まで戦艦「榛名」に乗組。配属艦の戦艦「扶桑」に乗組。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「菅野直」の詳細全文を読む
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