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築地反射炉 : ウィキペディア日本語版
築地反射炉[ついじはんしゃろ]

築地反射炉(ついじはんしゃろ)は、佐賀県佐賀市長瀬町にあった反射炉である。海防の必要性が高まった幕末期、製の洋式大砲を鋳造するため佐賀藩により築造され、1850年に日本初の実用反射炉として完成、1851年に日本で初めて鉄製大砲を鋳造した〔〔。
尚、当項目では後に増設された「多布施公儀石火矢鋳立所」(たふせこうぎいしびやいたてしょ、以降「多布施反射炉」と記述)についても記述する。
== 歴史 ==

=== 背景 ===
佐賀藩の第10代藩主鍋島直正は、折から藩政改革や西洋の科学技術の導入を積極的に行っていた。また、佐賀藩は福岡藩とともに長崎警備を担当していたが、1804年(文化元年)のレザノフ長崎来航や1808年(文化5年)のフェートン号事件では当事者として危惧を感じ、また1840年 - 1842年アヘン戦争イギリスに敗れたという情報も入ってくる〔長野、38-39頁、52-61頁、104-110頁〕。
そのような中、海防への懸念を募らせた直正は弘化4年(1847年)、江戸幕府老中の阿部伊勢守に海防の必要性を献策した。しかし、翌嘉永元年12月(1849年1月頃)の返答で却下されたため、独自に海防強化策を実施することを決める。その内容は、長崎に近い伊王島と神ノ島で砲台(台場)を増設するとともに、当時主流の青銅砲をより強力な鉄製大砲に置き換える為に大砲の鋳造を行うことであった。そのために、反射炉を築くこととなった〔〔長野、130-131頁、149-155頁〕。
当時の日本の製鉄はたたら製鉄(こしき)炉により行われていたが、たたら製鉄による和銑は加熱時の流動性が低く成分にむらがあり脆かった。また、甑炉は小型であり容量が小さかった。大砲の鋳造には、反射炉によって質の良い銑鉄を大量に処理することが必要とされていたのである〔田中、148-152頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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