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篠原の戦い[しのはらのたたかい]
篠原の戦い(しのはらのたたかい)は、寿永2年(1183年)6月1日、加賀国篠原(現・石川県加賀市旧篠原村地区)において源義仲軍と平氏軍との間で行われた戦闘である。平安時代末期における治承・寿永の乱の戦闘の一つである。 == 経過 == 倶利伽羅峠の戦いでの敗北により、平維盛が率いる平氏軍は京方面へ北陸道を上っていったが、源義仲軍はすぐに追撃を始め加賀篠原の地で平氏軍を捉えた。敗走中に追撃を受けた平氏軍はほとんど交戦能力を失い惨憺たる体で壊走し、義仲軍の圧勝であった。平氏側は甲冑を付けた武士はわずか4,5騎でその他は過半数が死傷、残った者は物具を捨てては山林に逃亡したが、ことごとく討ち取られた。平家一門の平知度が討ち死にし、平家第一の勇士であった侍大将の平盛俊、藤原景家、忠経(藤原忠清の子)らは一人の供もなく逃げ去った。この3人の侍大将と、大将軍(平維盛)らの間で権威を争っている間に敗北に及んだという(『玉葉』寿永2年6月5日条)。 『平家物語』「篠原」「実盛」の章段において、平氏軍の老将斎藤実盛は自陣が総崩れとなる中、殿(最後尾)の守備を引き受けた奮戦ぶりが描かれ、実盛がかつて義仲の父源義賢が大蔵合戦で討たれた際に、幼い義仲を木曾へ逃がした恩人であったことが語られている。この逸話は修羅物の能の演目となっている。 この後、6月6日に敗れた平家軍が出陣した時の半数となって帰京し、義仲は10日に越前、さらに13日には近江へ入った。義仲軍の近江到着の報が京に届いた頃、鎮西反乱を鎮圧した平家の家人平貞能が帰京し、数万の軍勢を期待されたが、実際には1,000余騎程度で人々を大いに落胆させている。義仲は6月に都への最後の関門である延暦寺と交渉し、7月に入京を果たした。その直前に平氏一門は京を離れ西方へと逃れていった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「篠原の戦い」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Shinohara 」があります。
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