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篠原鳳作 : ウィキペディア日本語版
篠原鳳作[しのはら ほうさく]
篠原鳳作(しのはら ほうさく、1906年1月7日 - 1936年9月11日)は、鹿児島県出身の俳人。本名は篠原国堅(くにかた)〔琉球新報サイト内「沖縄コンパクト辞典」 〕。旧号は未踏、雲彦。1906年(明治39年)、鹿児島市で生まれる。鹿児島県立第二鹿児島中学校(16回卒=大正12年)〔「甲南 第5号」鹿児島県立甲南高等学校編、1956年〕を経て、1929年東京帝国大学法学部卒。病弱のため都会での就職を避け郷里で句作に没頭。1931年より教諭として沖縄県立宮古中学校に赴任、1934年に結婚を期に母校の鹿児島二中に転任した。
俳句は1928年、「ホトトギス」に初入選。「ホトトギス」、「京鹿子」、「馬酔木」、「天の川」など、初学時代は多くの俳誌に投句したが、1931年より「天の川」に所属。1933年(昭和8年)、同人誌「傘火(かさび)」創刊。1934年より「鳳作」の号を用い、「天の川」と「傘火」を拠点にして新興俳句運動の一翼に参じた。花鳥諷詠に終始する俳句を否定し、俳句に何より必要な物は詩魂のはばたきであるとして無季俳句を推進。代表句「しんしんと肺碧きまで海の旅」(1934年)は無季俳句の存在と可能性を俳壇に知らしめた先駆的作品で〔『現代の俳人101』 68-69頁。〕、有季派であった水原秋桜子をして鳳作を無季陣最高の俳人と言わしめた〔『現代俳句ハンドブック』 45頁。〕。他に「蟻よバラを登りつめても陽が遠い」などの句が知られ、青春性を湛えた句風であった〔『現代俳句大事典』 264-265頁。〕。
1936年(昭和11年)、30歳で夭折、死後、「海の旅」、『篠原鳳作全句文集』が纏められた。また「しんしんと肺碧きまで海の旅」句碑が沖縄県宮古島市カママ嶺公園および薩摩半島最南端長崎鼻に建てられている〔「篠原鳳作」in「青」2000年 文化交流誌 釧路市 〕。
== 鳳作と二季会 ==
1931年から約3年半、鳳作は公民と英語の教師であったが、図画(美術)教師の欠員に伴い、専科外であった図画の指導を約7カ月担当した。学生たちから尊敬されていた鳳作が図画を指導したことから、宮中に絵画ブームが起き、鳳作は学生展を開くなどして発表の機会を与えた。戦後、これらの教え子たちによって宮古島に「二季会」が結成された。〔篠原鳳作と二季会/瑞慶山 昇

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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