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簑田浩二 : ウィキペディア日本語版
簑田浩二[みのだ こうじ]

簑田 浩二(みのだ こうじ、1952年3月11日 - )は、広島県廿日市市出身の元プロ野球選手外野手)。2014年現在はプロゴルファー(ティーチングプロ)として活動している。
なお、「蓑田浩二」という表記がしばしば見受けられるが、誤りである(「」は草冠ではなく竹冠)。
攻・走・守すべてにバランスのとれたオールラウンダーとして知られた〔別冊宝島1809 『プロ野球最強の「3番打者」ランキング』 宝島社、2011年
、p.42、43〕。
== 経歴 ==
大竹高校時代は甲子園には縁がなかった。卒業後、三菱重工三原に入社。都市対抗野球大会には4度出場した〔テレビ愛知制作『プロ野球列伝〜不滅のヒーローたち〜』「プロの勲章3-3-3」(1991年1月12日放送分)〕。
1972年南海ホークス(当時、高校の先輩である広瀬叔功が主力選手として活躍していた)からドラフト4位指名を受けるが、当時はプロ野球に興味がなく、自信もなかったことから入団を拒否〔『阪急ブレーブス黄金の歴史 よみがえる勇者の記憶』ベースボール・マガジン社〕〔南海の入団拒否の背景には、戦力を失いたくない三菱重工三原側の慰留もあったとされる。【11月18日】1975年(昭50) 「使えなかった腹切る」ロッテスカウト自信作は“人斬り”だった - スポーツニッポン 2012年3月1日閲覧〕。その3年後に阪急ブレーブスからドラフト2位指名を受け入団。阪急のことは社会人野球時代から名が知られていた山口高志が入ったチームという程度しか知らず、広島出身で広島東洋カープのファンだった簑田にとっては同年の日本シリーズでその年リーグ初優勝を果たしたカープを倒したチームと言うことで、複雑な気持ちもあったという〔。また、22歳の時に社内結婚しており、阪急入団時には妻のお腹には子どもが宿っていた〔。
身体が小さいこともあり、入団時から野球選手として1つの面だけで優れているよりも、全ての面を兼ね備えていることを理想としていた〔。もともと内野手だったが、加藤秀司ボビー・マルカーノ大橋穣森本潔(および森本とのトレードで中日ドラゴンズから移籍してきた島谷金二)と並ぶ内野陣に付け入る余地はなく、2年目には外野手に転向。しかし外野も大熊忠義福本豊バーニー・ウイリアムスらレギュラーの壁は厚かった。こうして1年目、2年目は控えに甘んじていたが、ターニングポイントとなったのが2年目、巨人と対戦した1977年の日本シリーズ第4戦であった〔簑田浩二「77年日本シリーズ、好走塁の真相」 - Sports Communications(2011年7月11日)〕。
9回2死、1点ビハインドの場面で、四球で出塁した藤井栄治の代走で出場し、代打の高井保弘の場面で、浅野啓司-吉田孝司バッテリーの警戒の中〔、盗塁を成功させた(簑田自身は9回2死、代打高井の場面でバッテリーはさほど警戒していないと感じていた〔。また、上田利治監督からは「チャンスがあれば初球から行け」と指示されていた〔文春ビジュアル文庫「巧守好走列伝」〕)。その後、高井のレフト前ヒットで二塁から本塁に突入。高井が打った瞬間から三塁コーチの石井晶は腕を回していた。しかし、当の簑田本人は三塁に到達する前に既に本塁で刺されると思っており〔、実際本塁でのタイミングはアウトと思われた。しかし、吉田のタッチをうまくかわして同点のホームインを成し遂げ、阪急の逆転勝利につなげた。このとき、阪急ベンチ全員が喜んでいる中で上田監督だけは「スタートが遅い。二死なんだからもっと思い切ってスタートを切れ」と注文を付けた〔。簑田にとっては野球の奥深さを考えさせられるきっかけになったという。また、「あのプレーは運も良かった。レフトに(張本勲の)守備固めで入っていた二宮(至)の返球がすばらしく、ノーカットだったら完全にアウトだった。しかし、サードの高田(繁)さんが中継した返球が1メートル内側に逸れた。たぶん吉田さんもノーカットと叫んだはずだが、大歓声で聞こえなかったんじゃないか(吉田本人は「よし」と叫んだといい、やはり高田には聞こえていなかったであろうとの推測を語っている〔)。いろんな偶然が重なって僕がヒーローになったけど、もしアウトなら試合は負けていて、シリーズの流れも違ったものになっただろう。」とも語っており、それからは状況に応じて考えたプレーをするように心がけるようになったという〔。
1978年にはケガで離脱した大熊に代わり〔、2番打者、左翼手のレギュラーとして定着、61盗塁を記録。福本(70盗塁)に及ばず盗塁王のタイトルは獲得できなかったが、「福本さんとチームの中の役割が違うのだから当然」と語っている〔。
同年より8年連続でダイヤモンドグラブ賞を獲得。簑田は「最も気持ちよかったのは守備。特にホームで相手走者を刺すプレーは1点のプレーと言う意味ではホームランと同じ。自分がホームランを打つよりも快感だった。」と語っている〔。補殺が多かったことから強肩外野手のように評されることが多いが、簑田自身は「自分は遠投90メートルもいかないし、それほど強肩じゃない。バックホームで走者を刺すのにそんな強肩は必要ない。ホームからフェンスまで広いところでも100mちょっと、野手はそれよりも前で守っているし、特にこのような場面では普通よりも前で守る。基本的にカットマンを狙って投げるが、ワンバウンドでホームに届かせるには50mちょっと投げられれば十分」といい「それよりも重要なのは状況に応じて守備位置を考えること」と解説している〔文春Numberビデオ『巧守好走列伝』〕。
1980年には31本塁打、39盗塁、31犠打を記録。この“30-30-30”は日本唯一。同年退団したウイリアムスに代わり、1981年には右翼手コンバートされ、背番号もウイリアムスの1を受け継ぐ。簑田は「レフトよりライトのほうが楽しかった。走者を三塁に進ませない返球など、プレーの幅が広がった。」と振り返っている〔。
1982年後期からは3番打者としての起用が中心となり、1983年には.312、32本塁打、35盗塁を記録、中西太以来30年ぶり史上4人目のトリプルスリーを達成する〔【9月24日】1983年(昭58) 公約通り 簑田浩二 30年ぶりの“トリプル3” - スポーツニッポン〕。この記録はオールスター前くらいに達成ペースにあることを番記者から言われ、中西以来30年ぶりの快挙と知り、強く意識したという〔。特に意識したのは盗塁で、当初は3番という立場で4番打者(水谷実雄ブーマー・ウェルズ)の前でアウトになってはいけないという意識から盗塁は少なかったが、シーズン後半は意識して盗塁を増やし、達成した。また、ファンから「333」があしらわれた記念のネクタイピンが贈られたという〔。
1983年には両リーグ最多の17補殺を記録した〔。
しかし、1985年に頭部に死球を受ける等その後は怪我に泣かされ、若手の成長もあり1988年、金銭トレードで読売ジャイアンツに移籍(背番号は2)。同年に開場した東京ドームに対応できる守備の名手として期待された。全盛期のプレーは披露できなかったが、若手の見本として、1989年の日本一にも貢献。近鉄に怒涛の3連勝を決められ、後が無くなった第4戦で、不調の緒方耕一に代わり1番で起用され、初回に二塁打を放ち、三進後、浅いセンターフライでタッチをかいくぐり先制得点を挙げ流れを変えた〔。簑田のバッティング練習を見ていた桑田真澄は、「右の篠塚(和典)さんみたいだ」とその高い打撃技術を絶賛した。1990年7月23日〔にシーズン限りでの現役引退を表明し、閉幕まで打撃コーチ補佐や一塁ベースコーチを務めた。
1991年から1995年、巨人の一軍打撃コーチ・守備走塁コーチを歴任。1996年から2000年まで、テレビ東京の野球解説者を務めた他、デイリースポーツでも評論家を務めた。
現在はフリーの野球評論家として活躍。東京スポーツに「セパ盟主の裏側を知る名手・簑田浩二」の自伝を掲載していた。また、日本インストラクタープロゴルフ協会認定プロゴルファーとして、浅草橋駅近くの「友愛ゴルフアカデミー」でレッスンを行っている〔浅草橋でレッスンプロ 元巨人・簑田浩二のセカンドライフ - 日刊ゲンダイ2014年5月19日。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「簑田浩二」の詳細全文を読む



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