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蕭 勁光(しょう けいこう、1903年1月4日 - 1989年3月29日)は、中華人民共和国の軍人。中国人民解放軍海軍の創設者で、初代海軍司令員。最終階級は海軍大将。 == 経歴 == 貧しい手工業者の家庭に生まれる。五四運動時、長沙長郡中学で学生運動に身を投じた。ロシア十月革命の影響を受け、1920年、毛沢東等が創設した湖南ロシア研究会に入会した。同年8月、上海共産主義小組が主催する「外国語学社」で学び、同年、社会主義青年団に加入した。 1921年春、劉少奇、任弼時等と共にソ連に渡り、モスクワの東方勤労者共産大学に入学。また、在ソ期間、軍事学校で軍事教育を受けた。1922年1月、極東各国の共産党と民族革命団体の第1次代表大会に出席。1922年末、中国共産党に入党。1924年1月、東方民族の代表としてウラジーミル・レーニンの葬式に列席。同年秋、ソ連から帰国し、安源炭鉱の労働運動に従事。 1925年冬、国民革命軍第2軍第6師党代表に任命され、北伐軍の江西、閩北、江浙及び鄂西の諸戦役に参加した。1927年の革命失敗後、再びソ連に渡り、レニングラード軍事政治アカデミーで学ぶ。1930年秋の帰国後、閩粤贛軍区参謀長兼政治部主任に任命され、閩西彭楊軍事学校校長を兼任し、閩西蘇区の反「囲剿」等の戦役を指揮した。1931年冬、中央軍事政治学校校長に任命され、在任時、ソ連赤軍の「野戦条令」を翻訳した。1932年、紅軍第5軍団政治委員として政治工作を担当し、「寧都起義」に参加した国民党部隊の改編に成功した。贛州、水口戦役に参加した後、北上して建寧、黎川、泰寧根据地を開設した。1933年から建黎泰警備区司令員兼紅11軍政治委員、閩贛軍区司令員兼紅7軍団政治委員を歴任。1934年、党内の「左傾」冒険主義の影響の下、蕭勁光は、「羅明路線」として誣告され、党を除籍され、徒刑5年の判決を受けた。釈放後、紅軍大学で軍事教育を講義し、後に政治科科長に任命された。 長征時、軍事委員会幹部団上級幹部隊隊長。遵義会議後、中共中央は、蕭勁光を名誉回復した。1935年6月、紅3軍団参謀長に任命。陝北到達後、陝甘寧省軍事部部長兼紅29軍軍長に任命。1937年春、中央革命軍事委員会参謀長。1937年8月、党の洛川会議に出席。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「蕭勁光」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Xiao Jinguang 」があります。 スポンサード リンク
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