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米原 昶(よねはら いたる、1909年2月7日 - 1982年5月31日)は日本の政治家。元衆議院議員(日本共産党公認、3期)〔 *日本共産党 鳥取県委員会 - 智頭町で米原万里展 - 赤旗・民報 - ニュース 〕。日本共産党幹部会委員。 == 来歴・人物 == 鳥取県八頭郡智頭町生まれ。智頭町は江戸時代から宿場町として栄え、実家は代々「もめんや」の屋号で呉服類や小間物の商いをしていた〔米原万里さんのお父さん、そしてエスペラントのこと 〕。旧制の鳥取中学(現在の鳥取西高)を経て旧制一高に入学するも、学生運動に携わったことで放校処分が下る。一高在学中より27年テーゼや社会科学研究会などを通じて日本共産党への関心を深め、弘世 哲夫の変名で地下活動をおこない、1945年、第二次世界大戦の敗戦と民主化により合法化された同党へ入党。 その後も共産党の活動を続け、1949年、第24回衆議院議員総選挙に鳥取県全県区から同党の公認候補として出馬しトップ当選を果たす。所謂「五〇年問題」により党内が所感派、国際派に分裂する中、再選を期して臨んだ1952年の第25回衆議院議員総選挙で落選、以後同選挙区から2度立候補するが何れも当選には至らなかった。鳥取県内の選挙区から立候補して当選した共産党国会議員は、現在に至るまで米原のみである。 1959年から1964年までの5年間、『平和と社会主義の諸問題』誌編集委員として党から派遣〔国際共産主義運動での意見交換を図るべく、各国の共産主義政党が1958年に共同で創刊した理論誌〕、家族とともにチェコスロバキア・プラハへ赴任する〔1950年代はレッドパージの影響が未だ色濃く残る時代であったため、米原の編集局勤務は極秘とされ、表向きは「チェコスロバキア科学アカデミー・政治経済研究所」勤務となっていた〕。1967年の都知事選挙では共産党推薦候補となるも、社会党の呼び掛けに応じ出馬を取りやめ美濃部亮吉候補に一本化する(当選者は美濃部)。 1969年、第32回衆議院議員総選挙で東京2区に転じ、17年ぶりに当選を果たす。前回に続いて共産党が躍進した1972年の第33回衆議院議員総選挙でも当選するが、1976年の第34回衆議院議員総選挙にて次点に終わる。以後は地盤を榊利夫に譲り政界からの引退を表明。 1982年5月31日、筋萎縮性側索硬化症により東京都渋谷区の代々木病院にて死去。73歳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米原昶」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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