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米山 篤志(よねやま あつし、1976年11月20日 - ) は栃木県宇都宮市出身の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはディフェンダー。短期間ながら日本代表に選出されたこともある。 ==来歴== 桐蔭学園高校時代、スランプに陥った時期に李国秀の勧めでミッドフィールダーからディフェンダーへと転向した〔ウイークリー・インタビュー VOICE!『週刊サッカーマガジン』 1999年9月15日号 No.728、ベースボール・マガジン社、61-63頁。〕。 駒澤大学では2度の全日本大学選手権優勝やユニバーシアード日本代表選出などの実績を残し、在学中の1998年にヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に入団。同年2ndステージにはレギュラーポジションを獲得した。2000年にはフェアプレー個人賞を獲得した。 トルシエ監督時代には日本代表にも選出され、2000年2月26日のAFCアジアカップ2000 (予選) のブルネイ戦で国際Aマッチのキャップを記録した。 以後も主力として東京Vのレギュラーを務めていたが、2005年に東京VのJ2降格が決定するとクラブの方針から戦力外通告を受けた。この時米山と林健太郎が早々に戦力外通告を受けた事は、高校・大学とプロ入り前からチームメイトだった山田卓也やクラブ後輩の小林大悟が東京Vを去る決断をする要因となった。 2005年10月8日、元タレントで1999年度ミス日本ミス水着に選ばれた小谷亜希子と入籍。 2006年は川崎フロンターレに移籍。第6節の千葉戦に途中出場し、J1リーグ通算200試合出場を達成した。シーズン終了後には「川崎は来期に向けての契約非継続選手はゼロ」との報道もされていたが、2007年1月にJリーグ合同トライアウトに米山が参加していたことから、実際には戦力外通告を受けていた事が明らかになった。2007Jリーグ開幕直前に名古屋グランパスエイトの練習に参加し、正式に入団が決定した。2008年11月末にシーズン限りでの退団が明らかになったが、その直後のホーム最終戦・対札幌の試合終了直前に「無回転ボール」での強烈な直接フリーキックをゴールを決めた。 2009年、この年からJ2に昇格した故郷のクラブ・栃木SCに完全移籍。2010年は佐藤悠介とダブルボランチを組み、4連勝を含む11戦負け無しとチームの好調を支えたが、終盤は出場機会が減り、2010年シーズンを持って契約満了となり退団した。 2011年は、(アメリカ)や、深圳紅鑽(中国)、愛媛FC、さらにはオーストラリア、ベトナムと、各国でプレーできるクラブを模索するも契約に至らず〔週刊サッカーマガジン No.1386 38-40頁〕、11月8日に現役引退を発表した。 2012年より、ファンルーツアカデミーコーチングスタッフ、東京23FC監督に就任〔今季の監督就任のお知らせ 東京23FC 2012.01.27〕。これと平行して中日スポーツ紙上でのサッカー評論も行う。 2014年10月、東京23FCの監督を解任された 2015年、古巣名古屋グランパスのスクールコーチに就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米山篤志」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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