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米沢 彦八(よねざわ ひこはち)は落語家の名跡。現在は空き名跡であるが、過去4~5人ほど確認されている。米澤 彦八とも表記する。 == 初代 == 初代 米沢 彦八(よねざわ ひこはち、生没年不詳)は、江戸時代(元禄から正徳)中期の上方の落語家。一部書籍では1714年7月14日(正徳4年6月3日)に興行先の名古屋で死去したとされている。本名は不明。豊笑堂と号す。 大道に床几を据えるだけの文字通りの辻咄から生玉神社(いくたまじんじゃ、現在の生國魂神社)境内の小屋に、大道芸人が技を競いあい大いに賑っていた。そのなかで彦八は人の足を止めて注目させるため、「当世仕方物真似(しかたものまね)」の看板を出して興行している。 彦八の咄は自書の軽口本集『軽口御前男』『軽口大矢数』『祇園景清』などに纏められている。落ちに重点をおいた新鮮な咄が多い。彦八の演じる姿を描いた挿絵などによると、立烏帽子、大黒頭巾、編み笠、湯呑茶碗などが描かれておりそれらを駆使して演じたとみられる。ことに物真似は大名に扮するのが得意だったとされ、後の俄の芸能などに繋がるものがある。 近松門左衛門の『曽根崎心中』で、お初を生玉に連れ出した田舎者が一人で見に行くのも彼の物真似であった。 上方落語の原型になったといわれる。そのため、初代露の五郎兵衛、鹿野武左衛門らと共に、「上方落語の始祖」や「落語家(落語)の祖」と呼ばれる。五郎兵衛、武左衛門よりも若かったという。 有馬小便の原話は『軽口御前男』に「有馬の身すぎ」として掲載されている。 昭和初期まで生玉で製造された烏帽子をかぶり扇子を持った子ども向けの玩具の操り人形の生玉人形は彦八がモデルとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「米沢彦八」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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