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本牧(ほんもく)は、神奈川県横浜市中区南東部の地域名である。北は山手、西は根岸に接し、東・南は東京湾に面する。地図上では、関内地区の南側、沿岸部一帯が本牧地区である。単に「本牧」という場合は、行政上の町名ではなく、複数の町名を含む周辺一帯をまとめた地区名を指す場合が多く、伝統的な通称で「本牧地区」ともいう。 == 概要 == 当地域は、台地が東京湾に突き出した部分に当たり、現在は海岸がすべて埋め立てられて工場、埠頭などになっているが、かつて突端部の本牧十二天(旧本牧神社)と本牧元町・本牧三之谷の付近は海岸から断崖が切り立っており、「本牧岬」あるいは「本牧の鼻」と呼ばれ〔地図「三千分一地形図「84-8根岸(昭39) 」(横浜市建築局都市計画課 )によれば、本牧大里町の南端(別名「八王子鼻」)を本牧岬と言った。〕、その周辺は漁村であった。 本牧という地名は1442年に「横浜」とともに初めて記録に見え、「本目」と書かれたこともあるが、語源は不詳。戦国時代には、芝浦・羽田と並んで北条水軍の拠点が置かれていた。 幕末、日本来航時に横浜周辺を測量したペリーは、本牧十二天のオレンジ色の崖をその色から「マンダリン・ブラフ」、現在の本牧市民公園周辺の崖を「トリーティー・ポイント(条約岬)」と名づけた。本牧の断崖は横浜港に向かう各国の船の目標であった。現在でも南部の本牧市民公園付近に断崖が残り海岸の名残を留める。 古くから景勝地として知られ、外国人たちは本牧から根岸にかけての海岸(根岸湾)を「ミシシッピ・ベイ」と呼びその風光を愛した。明治の実業家原富太郎(三渓)がこの海岸に構えた別荘は現在、三溪園の名で横浜の代表的観光地として知られる。現在は隣接して本牧市民公園、本牧臨海公園がある。 太平洋戦争敗戦直後に本牧十二天を含む中央部が米軍に接収されるに伴い、住民達は強制退去させられフェンスで囲まれた。フェンス内は在日アメリカ海軍の住宅街『ベイサイド・コート』(米軍住宅、正式名称:米軍横浜海浜住宅地区 (Yokohama Beach DH-Area) )などの施設となり、「アメリカ村」などともいわれ、日本におけるジャズなどのアメリカ文化の発信地でもあった〔本牧って昔はどんな感じだった?(前編) ( 2013年10月31日)〕。当地域は1982年に返還され住宅地、公団住宅、ショッピングセンター(マイカル本牧)、公園などになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「本牧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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