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久米平内[くめ の へいない]
久米 平内(くめ の へいない、1616年2月20日 - 1683年7月29日)は、江戸時代前期に実在した日本の武士、剣術家である〔''久米平内''、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク、2012年7月25日閲覧。〕〔''久米平内''、デジタル大辞泉、コトバンク、2012年7月25日閲覧。〕〔''粂平内・久米平内''、大辞林 第三版、コトバンク、2012年7月25日閲覧。〕。粂 平内(読み同)とも表記する〔〔。出生名は兵藤 長守(ひょうどう ながもり)〔〔、通称は平内兵衛(へいないひょうえ)〔。講談に取り上げられたため、その人物像は伝説的とされる〔〔。 == 人物・来歴 == 元和2年1月4日(グレゴリオ暦 1616年2月20日)、肥後国熊本(現在の熊本県熊本市)に「兵藤長守」として生まれる〔。「久米」(粂)姓は妻のものとされる〔。 三河国挙母藩(現在の愛知県豊田市中心部)に仕え、そののちに江戸・赤坂(現在の東京都港区赤坂)で道場を開き、武術を教えた〔〔。赤坂時代、千人斬りの願を起こし、夜ごと辻斬に出たとされる〔〔。その後、出家した鈴木正三に入門し、座禅を修めた〔〔。浅草の浅草寺の境内、仁王門外に自らの「仁王坐像」を設置し、罪業消滅を願い、通行人に踏みつけさせたとされる〔〔。浅草寺の宝蔵門脇に「久米平内堂」が現存するが、ここに安置されたとされる平内像は「踏み付け」が「文付け」に解されて、縁結び信仰の対象となった〔〔〔。 天和3年6月6日(グレゴリオ暦 1683年7月29日)、死去した〔。享年68(満67歳没)。 戒名は無関一素居士〔。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「久米平内」の詳細全文を読む
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