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粟津の戦い : ウィキペディア日本語版
粟津の戦い[あわづのたたかい]

粟津の戦い(あわづのたたかい)は、寿永3年1月21日1184年3月5日)に近江国粟津にて行われた源義仲源頼朝派遣の東国諸将との間の戦い。治承・寿永の乱の1つ。
== 経過 ==
法住寺合戦後、源頼朝は後白河法皇の命を受けて弟の範頼義経以下、傘下の東国諸将に義仲討伐を命じた。宇治川の戦いなどで敗れた義仲は後白河法皇を連行して京都を脱出しようと図るが、六条河原の戦いで再度敗れて、今井兼平らわずかの兵を連れて根拠地のある北陸への逃走を試みた。
ところが近江国粟津に着いたところ、長年信濃国の支配を巡る争いで因縁があった一条忠頼率いる甲斐源氏軍と遭遇、最早戦力として成り立たなくなっていた義仲軍は潰滅し、辛うじて逃げ切った義仲に従うのは兼平のみであった。そこで義仲は覚悟して自害の場所を求めて粟津の松原に踏み込んだところ、馬の脚が深田に取られて動けなくなり、そこを顔面に矢を射られて討ち死にし、これを見た兼平も自害して、木曾源氏勢力は崩壊した。
なお、義仲を討った人物については諸説あり、『平家物語』『吾妻鏡』は三浦氏庶流の石田為久、『愚管抄』は義経配下の伊勢義盛と伝えている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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