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粟田 真人(あわた の まひと、生年不詳 - 養老3年2月5日(719年2月28日))は、飛鳥時代後期から奈良時代にかけての貴族。姓は臣のち朝臣。春日粟田百済〔『日本書紀』白雉4年5月12日条。森2010、86頁。〕の子。官位は正三位・中納言。 ==経歴== 粟田氏(粟田臣)は和珥氏・春日氏の後裔氏族で山背国に本拠を持つ一族。 生年は不明。出家して道観と名乗る。白雉4年(653年)の遣唐使船に留学僧として随行し、唐で学問を修める〔森2010、32頁。86頁。〕。帰国後、還俗して朝廷に仕え、天武天皇10年(681年)小錦下(後の従五位下に相当)となる。天武天皇13年(684年)八色の姓制定に伴い、朝臣姓を賜与される。持統天皇3年(689年)には大宰大弐となり、外国からの賓客を饗応する経験を積み〔森2010、86頁。〕、隼人174人、布50常、牛鹿皮50余枚を献上した。また忍壁皇子・藤原不比等らとともに大宝律令の編纂に参画し、大宝元年(701年)正月には直大弐(従四位上)民部尚書に任ぜられ、あわせて遣唐執節使(大使よりも上位)に任命され、文武天皇から節刀を授けられた〔『続日本紀』巻二 大宝元年5月7日条。〕。これが天皇が節刀(遣唐使や征夷将軍などに軍事大権の象徴として授けられた)を授けた初例という。 翌大宝2年(702年)5月に参議に任ぜられ朝政に参加。遣唐大使(執節使)に任命され、文武天皇から節刀を授けられた〔『続日本紀』大宝元年5月己卯(7日)条。〕。同年6月、自らが編纂に関わった大宝律令を携えて唐(正確にはこの時代、唐は存在しておらず、武則天(則天武后)が新たに建てた武周である)へ渡った。天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで倭と唐が敵対して以来初の本格的な使節派遣であり、国交回復の意味を持った遣使であると同時に、首都や律令制度の整備や天皇号および「日本」の国号が成立したことを唐に対して宣言するなど、様々な目的を持った使節であった。同遣唐使には山上憶良や道慈らも加わっている。翌年、都の長安に到着、武則天に謁見した。唐人からは「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評されたという。武則天からは司膳員外郎に任ぜられた。 当時、唐王朝は武則天(則天武后)による簒奪で周王朝に代わっていたことを日本側が把握していなかったため、粟田真人らは現地で若干の混乱を生じた。また、彼らが都・長安で見た実際の都城や律令制の運用実態は、日本国内での想像とは似て非なるものであった。たとえば藤原京では大極殿を含む宮(藤原宮)を都城の中央に配置していたが、長安城をはじめとする中国の都城では太極宮を含む皇城は、都城の北端中央にあるのが通例であった。律令の運用形態も日本とは異なり、律令の不備を行う格式なども制定されていた。大きな衝撃を受けて帰国した粟田真人らは、これらの日中の都城や律令制の差異を報告し、のちの改革に生かされていく。 慶雲元年(704年)、白村江の戦い以来捕虜になっていた者を連れて五島列島福江島の西端 玉之浦へ漂着して帰国。功績により大和国に田20町、穀1000石を賜与された。慶雲2年(705年)4月、大納言の定員を2人削減するとともに、大宝令制定に伴い廃止されていた中納言が朝廷の議政官として復活し(「令外の官」の始まり)、高向麻呂・阿倍宿奈麻呂と共に任命された〔『続日本紀』慶雲二年四月丙寅(17日)条。〕。入唐で得た知識を生かすべく慶雲の改革において、律令制施行直後の体制改革に参画。律令の実情に即した不具合の修正に参加した。 和銅元年(708年)には、唐に倣った初の流通貨幣である和同開珎が発行され〔これ以前の日本の貨幣として、天武天皇時代に発行された富本銭があるが、厭勝銭(まじないに用いられる銭)としての用途と見られ、通貨としての機能を有して流通していたかどうかについては疑問視されている。〕、および長安の造形に倣った本格的都城となる平城京遷都の詔が発せられた(藤原京と違い、平城京は長安と同じく大極殿を北端に置く。実際の遷都は2年後の和銅3年(710年))。 のち大宰帥なども歴任、霊亀元年(715年)には正三位に昇った。養老3年(719年)2月5日に死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「粟田真人」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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