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応永の外寇(おうえいのがいこう)は、室町時代の応永26年(1419年)に起きた、李氏朝鮮による対馬攻撃を指す。実際の戦闘は、対馬の糠岳(ぬかだけ)で行われたことから糠岳戦争とも言う。朝鮮では己亥東征と言われる。 他方、室町時代の京都では唐突な侵略に驚き、足利義持が明使を追い返したのが原因と考えて侵略者を蒙古(中国)と誤解したために伏見宮貞成親王の『看聞日記』では「大唐蜂起」と記された。 朝鮮軍は彼らが「島賊」と称した宗氏武士団の少数の抵抗に手こずり、台風の接近もあって、漁村と船を焼き払っただけで10日余りで対馬から撤退した。明らかに戦果は不充分であり、朝鮮側もすぐに再遠征を議論したが、結局実現しなかった。朝鮮は以後二度と外征は行わず、土地を与えたり米を送ったりと鎮撫策に終始した。 前期倭寇はそれ以前からすでに衰退傾向であったが、朝鮮が終息したと公式に判断したのはこの遠征の25年後の世宗26年(1444年)である。一方、侵略を受けた対馬はその後、日朝貿易を独占して朝鮮との唯一の窓口へと成長した。 == 背景 == === 前期倭冦 === 高麗史によると、倭寇は元寇以前にも存在したが〔倭寇熊神縣勿島 掠州縣貢船 ○八月 洪泞等 還自日本曰 窮推海賊 乃對馬島倭也ー『高麗史節要1263年』庚午遣監門衛錄事韓景胤權知直史館洪貯于日本請禁海賊ー『高麗史1259年7月』四夏月,倭寇金州,防護別監盧旦,發兵,捕賊船二艘,斬三十餘級,且獻所獲兵仗。○五月,倭寇熊神縣,別將鄭金億等,潛伏山間,突出,斬七級,賊遁ー『高麗史節要1227年』倭寇金州ー『高麗史節要1223年5月』〕倭寇の活動が目に立つほど頻繁になったのは、1350年からであった〔倭賊百餘艘、寇順天府 、掠南原求禮靈光長興府漕船ー『高麗史1350年二月』 倭賊二十艘、寇合浦、焚其營、又寇、固城、會源、長興府ー『高麗史1350年六月』〕。その時期から高麗末まで倭寇の侵入は500回があり、特に1375年からは、倭寇のせいで高麗の沿岸に人が住まなくなる程だったという〔時倭寇充斥(「充斥」とは「はびこる」という意)、濱海州郡、蕭然一空ー『高麗史列伝・鄭夢周』〕。 これに対するため朝鮮側が倭寇の根拠地と断定していた対馬国に、1389年に高麗の戦艦が侵攻し、倭寇船300余隻と海辺の家々を焼き、捕虜100余人を救出して帰還した〔擊對馬島、燒倭船三百艘及傍岸廬舍殆盡、搜本國被虜男女百餘人以還ー『高麗史列伝・朴葳』〕(康応の外冦)。高麗が李氏朝鮮に代わった後にも倭寇は半島各地に被害を与えるが、対馬の守護宗貞茂が対朝鮮貿易のために倭寇取締りを強化した事や、幕府で足利義満が対明貿易のために倭寇を取り締まった事など、特に日本側の対策により、14世紀末から15世紀始めにかけて倭寇は沈静化していった。 しかし、新たに将軍となった足利義持は、応永18年(1411年)に明との国交を断絶した。対馬においても宗貞茂が応永25年(1418年)4月に病没し、若年の宗都都熊丸(宗貞盛)が跡を継いだが、実権を握った早田左衛門太郎は倭寇の首領であり、活動を抑制されていた倭寇は再び活発化する傾向をやや見せていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「応永の外寇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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