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正平地震(しょうへいじしん)は室町時代前期(南北朝時代)に発生した南海トラフ沿いの巨大地震と推定される地震である。この地震名の「正平」は南朝の元号から取ったものであり、北朝の元号である康安から取って康安地震(こうあんじしん)と呼称されることもある〔石橋克彦(1999) 石橋克彦(1999): 文献史料からみた東海・南海巨大地震, 地學雜誌, Vol.108, No.4〕〔石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会 』岩波出版、2014年〕。 記録は南海地震と思われるものであるが、発掘調査により東南海地震も連動したと推定される。東海地震については不明。 == 地震の記録 == 『太平記』、『和漢合運』、『南方紀伝』、『阿波志』〔『大日本地震史料 上巻』〕、『後愚昧記』、『忠光卿記』および『後深心院関白記』〔矢田俊文 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2008年〕などに地震被害の記録がある。 正平16年(康安元年)6月24日寅刻(ユリウス暦1361年7月26日4時頃、グレゴリオ暦1361年8月3日)、西日本太平洋沖で大地震が発生した。 『後愚昧記』などには摂津四天王寺の金堂、奈良唐招提寺、薬師寺、山城東寺など堂塔が破損、倒壊したと記録される。『斑鳩嘉元記』によれば紀伊では湯の峯温泉の湧出が停止し、熊野山の山路や山河の破損が多く、『愚管記』には熊野神社の社頭や仮殿が尽く破損したとある〔宇津徳治、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年〕。 『太平記』巻第三十六、地震と夏雪の記録。軍記物語ゆえに文学的、誇張的表現、あるいは不正確な記述も見られるが、阿波雪湊(由岐)の津波の存在は事実であろうとされる〔。 鳴戸では三四日前に地殻変動で海が干上がり、地震前後に数時間に亘って地鳴りが響き渡り、地震による地殻変動で再び没して海に戻った様子が比喩的に表現されている。また6月22日の地震(前震)の日は盛夏にも関わらず冬至前後の様な寒さで雪が降りだしたことが記録されている。この夏雪の記事は当時の公卿の日記には見られないが、『高野春秋』に「辛丑六月廿二日、俄大雪降積」とあり高野山では降雪があった可能性があるとされる〔〔。 三河の記録としては渥美郡堀切の『常光寺年代記』に「自六月一日より廿一日迄大地震地破」とある〔『新収 日本地震史料 第一巻 自允恭天皇五年至文禄四年』p86〕。 『皇年代略記』には「貞治元年壬寅九月廿三日改元、依兵革流病天変地震也。」とあって、翌年の貞治元年9月23日(ユリウス暦1362年10月11日)に兵革・疫病・天変地異によって「貞治」に改元された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「正平地震」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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