|
紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家ともいい、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封じられて常陸介に叙任された故事にちなみ、紀伊国へ移封された後も、頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。このため、徳川常陸介家(とくがわひたちのすけけ)という。 == 概要 == 徳川家康の十男徳川頼宣を家祖とする。頼宣は、慶長8年(1603年)に常陸国水戸藩主に封じられるが、水戸には赴かないままに慶長14年(1609年)駿府藩主となり、さらに元和5年(1619年)紀州藩主(和歌山藩主)となった。以後、子孫は歴代の紀州藩主であった。常陸介に叙任されるのは、家祖頼宣が元服した慶長11年(1606年)に水戸藩主であったことに係る。第5代藩主吉宗と第13代藩主慶福が、それぞれ第8代将軍徳川吉宗、第14代将軍徳川家茂となっており、御三家のうちで征夷大将軍を出した唯一の家である〔第15代将軍徳川慶喜は血統からいえば御三家の水戸徳川家の出身であるが、自身は水戸家の当主とはなっておらず、御三卿の一橋家に養子に入って一橋家当主の身分から将軍となっているので、水戸徳川家から出た将軍とは言い難い。〕。 紀州家の支家(御連枝)で2代以上続いた家系は伊予国西条藩の西条松平家のみであるが〔鷹司松平家も紀州家の分家とみなされるが、頼宣の娘婿および女系子孫に始まるこの家系はその出自もあり、通常の御三家の御連枝とは扱いが異なる。〕、吉宗が徳川将軍家の後嗣に入り、新たに御三卿(田安徳川家と一橋徳川家、のちに清水徳川家が加わる)を創始したことによって紀州家の血筋は大いに繁栄した。吉宗以降の将軍家・御三卿からさらに大名家に養子に出た者も非常に多い。 明治維新後は最後の藩主茂承が華族に列し、侯爵を授けられた。戦前の紀州家は日本でも屈指の富豪といわれ、戦後も第16代当主徳川頼貞は参議院に2期連続当選を果たすなど存在感を示した。しかし、頼貞の生前の散財に加え、頼貞が1954年に没した後に借金返済のために遺族が興した事業が次々と失敗に終わり、さらに家庭内のスキャンダルも重なったため、戦後はマスコミの格好の餌食となった。 なお、頼貞の嫡子である頼韶が1958年に42歳で死去して以降は、家名は頼貞の妻や娘の女系によって名目上は保たれているが、旧侯爵家としては事実上の断絶状態にあるとする記述も見受けられ、またいわゆる十八松平の子孫で構成される徳川・松平一門の会にも、現当主宜子(19代)は会員と認められていないとの説もある。『平成新修旧華族家系大成』下巻でも、紀州徳川家の当主の名は空白となっている。 ただし、『朝日新聞』2009年10月1日夕刊「人脈記 お殿様はいま 8 「家風」それぞれ徳川御三家」では宜子が紀州徳川家当主としてインタビューを受け、「いつの頃やら、何か自然発生的に、気がついたら、独身の私が当主におさまっておりました」「この先、紀伊家がどうなるかですって。それはもう、自然の流れにお任せするしかないのかな、と思っております」と語っている。また『週刊朝日』2015年1月16日号に掲載された、徳川宗家および御三家の当主による座談会に宜子が加わっており、少なくともその時点では、宜子が宗家から紀州家当主として黙認されていることが確認された。 なお、西条松平家は明治維新後に最後の藩主頼英が子爵を授けられた。頼英は高松松平家から迎えた養子頼和に紀州宗家の茂承(頼英の実弟)の娘を娶せ、以後も女系を通じて血筋を保ち存続している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀州徳川家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|