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紀伊攻め : ウィキペディア日本語版
紀州征伐[きしゅうせいばつ]
紀州征伐(きしゅうせいばつ)または紀州攻めとは、戦国時代安土桃山時代)における織田信長羽柴秀吉による紀伊への侵攻のことである。一般的には天正5年(1577年)の信長による雑賀攻め、同13年(1585年)の秀吉による紀伊攻略を指すが、ここでは天正9年(1581年)から同10年(1582年)にわたる信長の高野攻めも取り上げる。
信長・秀吉にとって、紀伊での戦いは単に一地域を制圧することにとどまらなかった。紀伊は寺社勢力惣国一揆といった、天下人を頂点とする中央集権思想に真っ向から対立する勢力の蟠踞する地だったからである。根来雑賀の鉄砲もさることながら、一揆や寺社の体現する思想そのものが天下人への脅威だったのである。
== 中世を体現する国、紀伊 ==
ルイス・フロイスの言を借りると16世紀後半の紀伊は仏教への信仰が強く、4つか5つの宗教がそれぞれ「大いなる共和国的存在」であり、いかなる戦争によっても滅ぼされることはなかった。それらのいわば宗教共和国について、フロイスは高野山粉河寺根来寺雑賀衆〔フロイスは雑賀の住民は全て一向宗徒だとしている(『荘園の世界』上巻p.17)が、実際には他宗の信者である住民も多くいた。〕の名を挙げている。フロイスは言及していないが、五つめの共和国は熊野三山と思われる〔『荘園の世界』上巻p.9〕。共和国と表現されたように、これら寺社勢力や惣国一揆〔雑賀に関する資料に出てくる「惣国」という言葉について、現在の主流は雑賀五組の結集、すなわち雑賀惣国を指すという解釈である。一方で雑賀衆、根来寺、高野山、粉河寺、湯河氏、熊野衆らが畠山氏を推戴した一国規模の一揆であるという説があるが、現在は否定的に見られている(『戦国鉄砲・傭兵隊』p.36)。〕は高い経済力〔紀伊の全水田面積の80 - 90% が寺社領だったとされる(『寺社勢力の中世』p.108)。〕と軍事力を擁して地域自治を行い、室町時代中期の時点でも守護畠山氏の紀伊支配は寺社勢力の協力なしには成り立たない状況だった〔応永25年(1418年)、畠山氏は当時熊野本宮領の田辺を押領しようとして反撃を受け敗れた。また長禄4年(1460年)、守護畠山義就は根来寺と粉河寺の紛争に介入して根来衆と戦い、口郡守護代遊佐盛久以下700人以上を失う敗北を喫した(『和歌山県の歴史』pp.130-132)。〕。
紀伊における武家勢力としては、守護畠山氏をはじめ、湯河・山本・愛洲氏などの国人衆が挙げられる。室町時代、これらの国人衆は畠山氏の被官化したもの(隅田・安宅・小山氏など)〔被官化した国人衆は畠山氏の分国支配には関わらなかったが、軍事動員には応じた(『和歌山県の歴史』p.132)。〕、幕府直属の奉公衆として畠山氏から独立していたもの(湯河・玉置・山本氏)に分かれていた。
室町時代を通じ、畠山氏は前述の通り寺院勢力との妥協を余儀なくされながらも、紀伊の領国化(守護領国制)を進めていた。奉公衆の湯河氏らも応仁の乱前後から畠山氏の内乱に参戦することが増え、畠山氏の軍事動員に応じ、守護権力を支える立場へと変化していった(教興寺の戦いなど)。一方で15世紀後半以降、畠山氏の分裂と抗争が長期間続いたことが大きく響き、また複数の強力な寺院勢力の存在もあって、武家勢力の中から紀伊一国を支配する戦国大名が成長することはなかった。国人衆は畠山氏の守護としての動員権を認めながらも、所領経営においては自立した存在だった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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