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紀元前390年は、ローマ暦の年である。当時は、「アンブストゥス、ロングス、アンブストゥス、フィデナス、アンブストゥス、コルネリウスが護民官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元364年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前390年と表記されるのが一般的となった。 == できごと == === 共和政ローマ === * 7月18日:アッリアの戦い(紀元前387年とする説もある) * イタリアのアドリア海沿岸にいたセノネス族 (Senones) の族長ブレンヌスが、ガリア・キサルピナの軍勢を率いてローマを攻撃した。ガリア勢は、防御され抜かれたカピトリヌス(現在のカンピドリオの丘)を除いて、ローマ全市を蹂躙した。ガリア勢が町を破壊していくのを目の当たりにしたローマ人たちは、身代金を支払うことにした。金額は黄金1000ポンド(327kg)で合意を得た。 * ブレンヌスがローマ人たちと金の重量をめぐって口論していると、自らローマを去っていた前独裁官マルクス・フリウス・カミルスが、一軍を率いて現れ、ブレンヌスが金を持ち去ることを阻止した。まず、ローマ市内で市街戦が戦われ、ガリア勢は、市内から押し出された。次いで、市街地から離れて第二の戦いがあり、カミルスは侵略者を打ち負かした。こうしてローマを救ったことから、カミルスは「ローマ第二の創建者」と称されるようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀元前390年」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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