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紀広成[きの ひろなり] 紀 広成(きの ひろなり、 安永6年(1777年 - 天保10年8月23日(1839年9月30日)〔実報寺の墓碑銘より。〕)は、日本の江戸時代後期に活躍した四条派の絵師。呉春の弟子。姓は山脇、広成は名、字は子憲・菩提、号に東暉・既白など。 == 略伝 == 京都出身。初め呉春に学び、人物・花鳥を能くする。呉春没後、その弟子たちが互いに優劣を争うのに嫌気が差して今まで学んでものを捨て、それ以降、聖霊、夜叉、曼荼羅などを描く度に新奇さを出そうと努めたという〔。これを裏付けるように、文政5年(1822年)版『平安人物志』の住所は「嵯峨天竜寺」とあり、四条に住む兄弟弟子の岡本豊彦、松村景文らと距離を置いており、同時期の作品も四条派の描法と異なっている。 のちに中国・唐代の呉道子に傚ってもっぱら仏画を描く〔白井華陽 『画乗要略』。〕。しかし、弟子には自らの画法を押し付けること無く、その才能のまま描かせたという〔。日頃から仏教を厚く信仰し、観音大士堂を建てて一日読経し、数ヶ月肉食を絶つなど本職の僧侶顔負けの生活をおくったという〔。天保10年(1839年)歿、63才。墓所は京都東山区の実報寺で、貫名海屋撰・書による墓碑が現存する。一生独身で子が無く、跡は甥の澤渡精斎(紀広繁)、その子・澤渡素軒(紀広孝)が継いだ。弟子に高岡で活躍した町絵師・堀川敬周〔高岡市立博物館編集・発行 『企画展 高岡の絵師 ─堀川敬周とその弟子たち─』2003年7月12日。〕など。 現在確認されている作品は50点ほど。この程度の作品数で画風変遷を追うのは難しいが、文政初期から画風の変化が見える。羅漢図などの道釈画で知られているが、歴史人物画や花鳥画も残り、版本挿絵も幾つか手掛けている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀広成」の詳細全文を読む
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