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紀広純[き の ひろずみ] 紀 広純(き の ひろずみ、生年不詳 - 宝亀11年3月22日(780年5月1日)は、奈良時代の公卿。大納言・紀麻呂の孫。左衛士督・紀宇美の子。子に和気麻呂・吉継がいる。官位は従四位下・参議。勲等は勲四等。 == 経歴 == 天平宝字2年(758年)北陸道問民苦使に任ぜられ(この時の位階は正六位上)、天平宝字7年(763年)従五位下・大宰員外少弐に叙任される。天平神護元年(765年)薩摩守に左遷されるが、神護景雲2年(768年)筑後守に復帰する。 こののち、宝亀2年(771年)閏3月左少弁に任ぜられるが5月には美濃介に転任、宝亀5年(774年)河内守と専ら地方官を歴任する。また、同年3月には新羅国使・金三玄が大宰府に渡来した際、大外記・内蔵全成とともに遣わされて、来朝の理由を問う役割を務めている。また、この間の宝亀4年(773年)に従五位上に叙せられている。 宝亀5年(774年)7月鎮守副将軍を兼任して、陸奥守兼鎮守将軍・大伴駿河麻呂の下で蝦夷征討にあたる。翌宝亀6年(775年)9月本官も河内守から陸奥介に変更となり、同年11月には反乱を起こして桃生城へ攻め寄せた蝦夷を鎮圧した功労により、正五位下・勲五等に叙せられた。その後も蝦夷征討に従事して、陸奥守・陸奥国按察使・鎮守将軍に任ぜられ、宝亀9年(778年)には従四位下・勲四等に叙せられている。 宝亀11年(780年)2月参議に任ぜられ公卿に列すが、同年3月22日に反乱を起こした部下の伊治郡大領・伊治呰麻呂により伊治城で殺害された。当初、広純は俘囚出身の呰麻呂を嫌っていたが、のちに非常に信用して気を許すようになった。一方で、呰麻呂は表面上は広純に媚びて仕える振りをしながらも、内心怨みを抱いていたという〔『続日本紀』宝亀11年3月22日条〕。最終官位は按察使参議従四位下。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀広純」の詳細全文を読む
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