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紀男麻呂 : ウィキペディア日本語版
紀男麻呂[き の おまろ]
紀 男麻呂(き の おまろ)は、古墳時代豪族。系譜は明らかでないが、紀大磐の子とする系図がある〔鈴木真年『諸系譜』第1冊,紀朝臣〕。
== 経歴 ==
欽明天皇23年(562年任那を滅ぼした新羅を攻めるために、大将軍として朝鮮半島に派遣される。新羅が任那を攻めたときの様子を問責するために、哆唎(たり。現在の大韓民国全羅南道栄山江東岸辺あたりか?)から任那に入ると、薦集部登弭〔読みは「こもつめべのととみ」〕を百済に遣わせて新羅攻撃の打ち合わせをさせた。登弭は移動の途中で軍の機密文書弓矢を紛失したことから、攻撃計画が新羅の知るところとなり、新羅は急に大軍を動員して故意に敗北を重ねて、降伏を請うた。男麻呂は新羅軍を破って百済軍に合流すると、勝っていても安心せずに危急に備えるべき旨、配下の士卒に注意を促したという。〔『日本書紀』欽明天皇23年7月条〕
用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱では、男麻呂は巨勢比良夫膳賀陀夫葛城烏那羅らとともに大臣蘇我馬子側に従って大連物部守屋を討った〔『日本書紀』崇峻天皇即位前紀用明天皇2年7月条〕。
崇峻天皇4年(591年)巨勢比良夫・巨勢猿大伴囓・葛城烏奈良とともに大将軍に任ぜられ、任那再興のために2万人以上の兵を率いて筑紫まで出陣する〔『日本書紀』崇峻天皇4年11月4日条〕。その後、崇峻天皇暗殺事件の発生もあって朝鮮半島への進軍は行われず、推古天皇3年(595年)大将軍らは都に帰還した〔『日本書紀』推古天皇3年7月条〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「紀男麻呂」の詳細全文を読む



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