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紀 貫之(き の つらゆき)は、平安時代前期の歌人・貴族。下野守・紀本道の孫。紀望行の子。『古今和歌集』の選者の一人で、三十六歌仙の一人。 == 概略 == 幼名を「内教坊の阿古久曽(あこくそ)」と称したという〔荒俣宏は、くそは不浄であり、悪鬼の類ですらこれを嫌うものであるため、鬼魔の害を避ける方法として幼児に「マル」(不浄をいれる容器)や「クソ」(不浄そのもの)の名をつける親が現れたと論じている。荒俣(1994)〕。貫之の母が内教坊出身の女子だったので、貫之もこのように称したのではないかといわれる。 延喜5年(905年)醍醐天皇の命により初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を紀友則・壬生忠岑・凡河内躬恒と共に撰上。また、仮名による序文である仮名序を執筆している(真名序を執筆したのは紀淑望)。「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」で始まるこの仮名序は、後代の文学に大きな影響を与えた。また『小倉百人一首』にも和歌が収録されている。理知的分析的歌風を特徴とし、家集『貫之集』を自撰した。 日本文学史上において、少なくとも歌人として最大の敬意を払われてきた人物である。種々の点でその実例が挙げられるが、勅撰歌人として『古今和歌集』(101首)以下の勅撰和歌集に435首の和歌作品が入集〔『勅撰作者部類』〕しているのは歌人の中で最高数であり、三代集時代の絶対的権威者であったといえる。 散文作品としては『土佐日記』がある。日本の日記文学で完本として伝存するものとしては最古のものであり、その後の仮名日記文学や随筆、女流文学の発達に大きな影響を与えた。 貫之の邸宅は、平安京左京一条四坊十二町に相当する。その前庭には多くの桜樹が植されており、「桜町」と称されたという。その遺址は現在の京都御所富小路広場に当たる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀貫之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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