|
紀野 一義(きの かずよし、1922年8月9日 - 2013年 12月28日)は、日本の仏教学者、宗教家。真如会主幹。 仏教学者としては中村元らと共に「般若心経・金剛般若経」「浄土三部経 上・下」を翻訳(いずれも岩波文庫)。 一方、真理運動を展開する宗教者・友松圓諦の主宰する神田寺の青年部長を務めた後、在家仏教団体真如会(しんにょえ)を設立して主幹を務め、特定宗派に偏らず、現代に生きる仏教の普及をはかる。1964年に東京・谷中の全生庵ではじまった「清風仏教文化講座」は亡くなる直前まで続いた。「啓蒙書著作多く、仏教現代化に貢献した」として第一回仏教伝道文化賞を受賞。 紀野の仏教に対する理解は戦争体験により深められたという。学徒出陣で太平洋戦争には陸軍工兵士官として応召。レイテ島に送られる予定であったが輸送船団が壊滅し、台湾に送られる。ここで米軍爆撃機が投下した不発弾1752発の信管をはずした(これに失敗すると爆死する)また、両親をはじめ留守家族のほとんどが広島に投下された原爆の犠牲となった。こうした生死ぎりぎりの経験を経て仏典がよくわかるようになったという。 上記の全生庵・清風仏教文化講座のほかに「真如会」の例会(東京・四谷・安禅寺、京都・興正寺会館)、東京・池上本門寺、鎌倉大仏仏教文化講座などにて、仏教の普及啓蒙に努めた。 相田みつをは、紀野の主宰する「真如会」の古くからの会員で、紀野の1974年のベストセラー『生きるのが下手な人へ』で紹介され、世に知られるようになったものである〔〈毎日ムック〉『相田みつをと私 著名50人が選んだマイベストコレクション』、毎日新聞社、2000年、42~49頁〕。 2013年12月28日、肺炎のために他界〔仏教学者の紀野一義さん死去 朝日新聞 2013年12月28日閲覧〕。。 == 略歴 == *山口県萩市の顕本法華宗寺院・妙蓮寺の子息として誕生。曾祖父の貞心院日英は幕末のころに池上本門寺の貫主を務めた〔紀野一義著「まえがき」『親鸞と生きる:悩むから人間なんだ』PHP文庫、PHP研究所、1999年〕 。 *4歳の時、父とともに広島市の本照寺に移る〔讀賣新聞1970年8月2日17面〕 *旧制修道中学~旧制広島高校卒業。 *1943年 東京帝国大学文学部印度哲学科2年在学中、学徒出陣で応召。陸軍第五師団工兵連隊に入隊。少尉にまで昇進。 *1945年 台湾で国民政府軍の捕虜となる。家族を広島の原爆で失う。 *1946年 解放され帰国、復学。 *1948年 大学卒業。 *1958年 第一回印度学仏教学会賞受賞 *1964年 谷中・全生庵で清風仏教文化講座はじまる。 *1967年 第一回仏教伝道文化賞受賞 *1989年 宝仙学園短期大学学長 *1993年 正眼短期大学副学長 ラジオNIKKEIで「紀野一義の世界」を担当。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「紀野一義」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|