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細川尹賢[ほそかわいんけん]
細川 尹賢(ほそかわ ただかた)は、戦国時代の武将。細川氏の庶流・典厩家当主。細川氏野州家分家の当主・細川春倶の子で和泉下守護家を継いだ高基の兄。本家に当たる京兆家を継いだ高国は従兄に当たる。 == 生涯 == 典厩家の当主・細川政賢の養子となるが、永正8年(1511年)の船岡山合戦で政賢が高国と抗争して戦死した後、高国から家督相続を許されて典厩家の当主となり、高国に仕えた。また、高国を通じて将軍家からの一字拝領を願い出て許され、将軍足利義尹(のちの義稙)から偏諱を受けて名を尹賢(ただかた)と名乗る(「賢」は典厩家における通字であるが、細川家の通字の一つである「元」を冠した尹元(ただもと)も別名として伝わっている)。 大永6年(1526年)、高国の重臣・香西元盛を讒訴して高国に殺させた。このため、元盛の兄弟であった波多野稙通や柳本賢治らが丹波で高国・尹賢らに対して挙兵し、阿波から細川晴元・三好元長らも挙兵する。これに対して尹賢は高国の命令を受けて波多野稙通らを攻めたが敗れてしまう。大永7年(1527年)には三好政長と柳本賢治の連合軍と戦った(桂川原の戦い)が敗れ、高国や第12代将軍足利義晴と共に近江に逃走した。 享禄元年(1528年)、高国と京都奪回を試みるが、晴元の前に敗れたため、尹賢は落ち目になった高国を見限って晴元側に寝返り、享禄4年(1531年)には三好元長と共に高国を敗死させた(大物崩れ)が、その直後から晴元と不和になり、最終的に7月24日、晴元の命を受けた木沢長政によって摂津で殺害された。 子のうち、氏綱は高国の養子となっていたため、もう1人の藤賢が典厩家を継いだ(ただし、藤賢の前に氏綱が典厩家の当主であったとされることが多い)。氏綱は養父と実父の仇である晴元と抗争していくこととなる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川尹賢」の詳細全文を読む
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