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細川義之[ほそかわ よしゆき] 細川 義之(ほそかわ よしゆき、貞治2年/正平18年(1363年)-応永29年2月1日(1422年2月22日))は、室町時代前期の守護大名。細川詮春の長男。阿波守護。兵部少輔・讃岐守。法名は常長(じょうちょう)。養子に細川満久(従兄弟細川満之の子)。讃州家とも称された阿波細川氏の2代目であるが、記録上確認できる同家最初の阿波守護は義之である。 父・詮春の早世(正平22年/貞治6年(1367年)?)後、伯父である細川頼之の庇護下にあったが、康暦の政変で伯父とともに京都を追われて阿波に下り、続いて新しく阿波守護に任じられた細川正氏(まさうじ、清氏の子)の侵攻を受けるが、義之は正氏や阿波国内の南朝方を破って守護職を獲得し、室町幕府もこれを認めた。永徳元年/弘和元年(1381年)には所領安堵の文書を発給している〔「菅生家文書」。なお、同文書の署名より義之の初名を「義定」(よしさだ)とする説もあるが、“之”の崩し字が偶々“定”に見えただけとも考えられる(若松、2013年、P99)。ちなみに「之」の字は伯父・頼之より与えられたものと思われる。また、年代的に見て「義」の字は3代将軍・足利義満より下賜されたものであろう。〕。だが、応永3年(1396年)までには守護在職のまま出家して法号の常長を名乗り、満久に家督を譲っているが、実権はそのまま握り続けた。応永29年に病に倒れ、1月25日には4代将軍足利義持の嫡男義量(後の5代将軍)が特に見舞いへ派遣されている(『花営三代記』)。だが、2月1日に60歳で病死した〔『康富記』応永29年2月1日条、『看聞御記』の翌2日条にも前日の事件として義之死去について記されている。〕。 == 脚注 == 〔
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