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細川義春[ほそかわ よしはる]
細川 義春(ほそかわ よしはる)は、室町時代中期の武将。阿波細川家の出身。初め備中守護・細川勝久の養子となった際に1字(「勝」の字)を受けて之勝(ゆきかつ)と名乗っていたが、実家に戻ってからは10代将軍・足利義材(のちの義稙)より偏諱(「義」の字)を賜って義春(「春」は初代当主・詮春の1字に由来)に改名している〔『蔭涼軒日録』延徳3年(1491年)6月20日条。「義材」の1文字目で足利将軍家の通字でもある「義」の字を与えたことは破格の待遇を意味し、また気に入っていたのか、義春を幾度となくその屋敷に「御成」している。〕。 == 生涯 == 寛正2年(1461年)、阿波守護・細川成之の次男として生まれる。当初は同族である備中守護・細川勝久の養子となっていたが、長享2年(1488年)に父の跡を継いでいた兄の政之が早世したため、急遽阿波国に戻って家督を相続し、同国の守護となった。だが、細川氏の嫡流である京兆家当主の管領・細川政元と対立し、兄と同じように父に先立って明応3年(1494年)12月21日に阿波国にて死去。享年27〔死亡年月日・享年は「細川系図」による。なお、この6日前に義春の死亡説が流れたことが『後法興院記』に記されている。〕。 阿波守護は長男の之持が継ぎ、次男の六郎(後の澄元)は細川政元の養子となった。なお、義春が当初継ぐ予定であった備中守護家は細川一族・野州家の細川政春が継ぎ、その子高国も澄元と同様に政元の養子になっている。後に両者は京兆家の家督を巡って骨肉の同族争いを繰り広げることとなる(詳細は永正の錯乱を参照)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「細川義春」の詳細全文を読む
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