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ブリュッセル条約(ブリュッセルじょうやく)は、1948年3月17日に調印された条約。正式名称は「経済的、社会的及び文化的協力並びに集団的自衛のための条約 (Treaty of Economic, Social and Cultural Collaboration and Collective Self-Defence) 」。 イギリスとフランスとの間で前年に結ばれた相互防衛を目的とするダンケルク条約を拡張させたものである。英仏両国のほかにベルギー、ルクセンブルク、オランダが参加した。本条約の主な目的はドイツの再軍備に対する防衛である。 == 西側諸国の連携 == ブリュッセル条約では戦後ヨーロッパの安全保障協力に向けた取り組みがうたわれ、その内容は北大西洋条約 (NAT) の前身とも言え、またヨーロッパの相互防衛を定めたという点では似たようなものとなっている。ところがNATと大きく異なっているのは、ヨーロッパの相互防衛の規定として仮想敵国としているのがドイツとしていることである〔ドイツが仮想敵国とされたのは、伝統的にドイツの脅威に晒され続けてきたフランスの強い主張があったためである。太田歌子 「北大西洋条約の形成と米国の軍事コミットメントの成立」 『北大法学研究科ジュニア・リサーチ・ジャーナル』第8号、2001年、308頁。〕。これは翌年に発足するNATの枠組みが、ヨーロッパが東西2つに対立するブロックとして分断されることが避けられないという認識のうえに成り立っており、つまりソビエト連邦が将来復興を成し遂げるであろうドイツよりも脅威に感じられ、また西ヨーロッパの相互防衛が北アメリカを含む大西洋地域に及ぶという考えによるものである〔ただしブリュッセル条約も、実質的にはソ連の脅威を想定していた。太田歌子 「北大西洋条約の形成と米国の軍事コミットメントの成立」 、308頁。佐々木雄太「ベヴィンの『西欧同盟』構想とNATO――戦後イギリス外交論序説 (2)」 『大分大学経済論集』第32巻第1号、1980年、92-93頁。〕。 1948年9月、ブリュッセル条約参加国は軍事機構の創設を決定する。最高司令官会議議長にはイギリスのバーナード・モントゴメリーを任命し、本部をフランスのフォンテーヌブローに置いた。陸軍最高司令官にはフランスのジャン・ド・ラトル・ド・タシニ、空軍最高司令官にはイギリスのジェームズ・ロブ、海軍最高司令官にはフランスのロベール・ジョジャールが指名された。 条約の規定では文化的・社会的条項で特徴があり、「諮問評議会」の設置がうたわれている。この概念の根本にあるのは、西側諸国の協力によって共産主義の拡大を止めようとするものである。ブリュッセル条約は1954年10月23日のパリ会議で調印された議定書により修正されており、新たに西ドイツとイタリアが同盟に加わることになった。これを期に西欧同盟が発足することになった。 ブリュッセル条約は以下の特命全権大使によって調印された。 * シャルル・ド・ベルジック(摂政) * ヴァンサン・オリオール(大統領) * シャルロット(大公) * ウィルヘルミナ(女王) * ジョージ6世(国王) * ポール=アンリ・スパーク(首相) * ジョルジュ・ビドー(外相) * ジョセフ・ベック(外相) * ガストン・エイスケン(財務相) * ピム・ファン・ブーツェラー・ファン・オースターハウト(外相) * アーネスト・ベヴィン(外相) * ジャン・ド・オートクロク(駐ブリュッセル特命全権大使) * ロベルト・アルス(駐ブリュッセル特命全権公使) * ビネルト・フィリップ (駐ブリュッセル特命全権大使) * ジョジ・ウィリアム・レンデル(駐ブリュッセル特命全権大使) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブリュッセル条約 (1948年)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Treaty of Brussels 」があります。 スポンサード リンク
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