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結城持朝 : ウィキペディア日本語版
結城持朝[ゆうき もちとも]
結城 持朝(ゆうき もちとも、1420年応永27年)- 1441年5月6日嘉吉元年4月16日))は、室町時代前期の武将下総結城氏の第12代当主。第11代当主結城氏朝の嫡男。は他に朝兼(ともかね)、長朝(ながとも)、光久(みつひさ)とも。成朝は弟、小山持政は従兄にあたる。官位は右馬頭。通称は七郎で、結城七郎を称した。「持」の字は第4代鎌倉公方足利持氏から偏諱を賜ったものと思われる。
1438年永享10年)の永享の乱では鎌倉公方の足利持氏に加勢した。
1440年(永享12年)3月、永享の乱で自害した持氏の遺児である春王丸安王丸を雍した持氏派残党が常陸で挙兵すると、氏朝・持朝父子はこれらを結城城に庇護し、幕府による追討を受けた(結城合戦)。持朝は父氏朝や結城一族の諸氏と抵抗したものの敗れ、結城城は落城し、父子ともに討死または自害した。『永享記』によれば、持朝の首級を挙げたのは武田信重だという。春王丸・安王丸も捕らえられ持朝らの首とともに京に護送される途中長尾実景に殺害されている。
法名は福厳寺殿天英聖勇大禅定門。持朝の菩提を弔うために開かれた曹洞宗乗国寺(現在の茨城県結城市)は、のちに結城氏代々の菩提寺になった。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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