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結城聡 : ウィキペディア日本語版
結城聡[ゆうき さとし]

結城 聡(ゆうき さとし、1972年昭和47年)2月11日 - )は、囲碁棋士兵庫県神戸市出身、関西棋院所属、佐藤直男九段門下、九段。天元1期、十段1期、NHK杯5回優勝(56~57期、59~61期)、テレビ囲碁アジア選手権戦準優勝など、同時代の関西棋院の棋士の中では突出した成績を挙げ、関西棋院最優秀棋士賞7回。石の働きを追求する戦闘的な棋風で「武闘派」と呼ばれる。
==経歴==
1980年、神戸市立竜が台小学校2年の8歳の誕生日にアマチュア六段の父から囲碁を習い、アマチュア強豪の西村修の教えを受ける。1982年、同小4年の時に少年少女囲碁大会の小学生の部で7位となり、その後佐藤直男九段の子供囲碁教室に入り「将来名人になる」と言われる。翌年は3位となり、関西棋院院生となる。1984年12歳1カ月で、関西棋院では橋本昌二東野弘昭以来の最年少で入段。藤沢秀行の研究会にも参加し、坊主頭だったため「少林寺」という綽名を付けられる。このころから攻撃的な棋風で、師の佐藤に「丈和とも違う、囲碁史上に類例を見ない棋風だ」と評された。
1987年『棋道』誌の共立住販杯プロアマ対抗八強トーナメント戦で優勝。同年15歳で五段となる。この頃「月刊碁学」誌上で、今村俊也陳嘉鋭らとの三番碁を行う。1990年に新人王戦決勝三番勝負に進み、依田紀基に1-2で敗れるが、1993年には三村智保に2-0で勝って優勝。1991年19歳で早碁選手権の決勝に進み趙治勲に敗れるが、この時は『FOCUS』誌で「碁界の若花田」とも報道された。1993年に本因坊戦リーグ入り、翌年のリーグ戦では5勝2敗の同率プレーオフで加藤正夫に敗れる。1995年に早碁選手権戦の決勝で林海峰に勝って初タイトル。1996年『棋道』誌1〜4月号の企画で、「平成の名勝負」と銘打って依田紀基と持ち時間1人16時間の32時間1番勝負を行い、黒番中押勝ちする。
1997年九段。同年碁聖戦挑戦者となり、初の五番勝負登場となるが依田紀基碁聖に敗退。2003年に鶴聖戦、2004年に後継棋戦のJALスーパー早碁で連続優勝。2005年に棋聖戦挑戦者となり、関西棋院からは1977年第1期棋聖戦の橋本宇太郎以来の七番勝負登場となるが、羽根直樹棋聖に3-4で敗れる。
2006年から2009年まで、関西棋院第一位を4連覇。2008年度のNHK杯で、関西棋院の棋士としては1984年度の橋本昌二以来、24年ぶりに優勝。翌年同棋戦史上3人目、関西棋院では初の2連覇。2010年テレビ囲碁アジア選手権戦で準優勝。同年天元戦挑戦者となり、山下敬吾天元を3-0で破って、6度目の挑戦で初の七大タイトル獲得。アジア競技大会に男女ペア戦、男子団体戦に出場し、団体戦では銅メダル獲得。
2010年4月、史上最年少(39歳2か月)・最速(入段後27年1か月)・最高勝率(7割2分8厘)で、関西棋院では3人目となる通算1000勝を達成した〔囲碁の結城聡天元が千勝 史上14人目 (神戸新聞2011年4月14日付、同15日閲覧)および遅咲き、30代で進化 囲碁1000勝達成の結城天元 (朝日新聞4月19日付、同30日閲覧)参照。ただ年長の棋士ほど出場棋戦数が少なかったこと、関西棋院の棋士には院内独自棋戦や一部棋戦への出場制限があること、などに留意する必要がある。〕。天元戦では、井山裕太十段の挑戦を受けるも3連敗で失冠。しかし2008・2009・2011~13年度のNHK杯戦で優勝を果たす(この間の戦績は26勝1敗)など、早碁棋戦での活躍は顕著である。
2013年には十段戦挑戦者となり、6冠を保持していた井山裕太十段を3-2で破って、関西棋院では橋本昌二(1974年)以来39年ぶりとなる十段位を獲得。7大タイトルで井山以外の唯一のタイトルホルダーとなった。2014年には高尾紳路の挑戦を受けたが2-3で敗れ、十段位を明け渡した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「結城聡」の詳細全文を読む



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