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絨毯爆撃(じゅうたんばくげき、)とは、地域一帯に対して無差別に行う爆撃。無差別爆撃、都市爆撃、地域爆撃、恐怖爆撃とも呼ばれ、住宅地や商業地を破壊して敵国民の士気の喪失を目的とした戦略爆撃である。これに対して工場や港、油田などの施設の破壊を目的にした爆撃は「精密爆撃」に分けられる〔三浦俊彦『戦争論理学 あの原爆投下を考える62問』二見書房21頁〕。絨毯爆撃という表現は、床に敷かれた絨毯のように、爆弾が一面を覆う印象から想起されたものである。 == 歴史 == 1921年、イタリア軍の将軍ジュリオ・ドゥーエは『制空』において、これからの戦争は兵士、民間人の区別がない総力戦であること、空爆により民衆はパニックを起こし自己保存の本能に突き動かされ戦争を終わらせろと要求するようになるであろうことから、空爆のテロ効果を強調して無差別爆撃論を提唱し、最小限の基盤である民間人に決定的な攻撃を向けられれば戦争は長続きせず、長期的に見れば流血が少なくなるのでこのような未来戦は遥かに人道的であると主張し、さらに人口密集地の住民への攻撃手段として高性能爆弾、焼夷弾、毒ガス弾を挙げた〔荒井信一『空爆の歴史』岩波新書9-10頁〕。 1937年4月26日、スペイン内戦下でスペイン北部・バスク州の小都市ゲルニカがフランコ将軍を支援するナチスのコンドル軍団によって空爆された。このゲルニカ空襲が焼夷弾を本格的に使用した最初の空襲となり、世界初の無差別爆撃でもあった。ピカソの『ゲルニカ』は同名の都市への無差別絨毯爆撃に際し描かれたものとして著名である。1938年から1943年まで日本によって継続的に行われた重慶爆撃も後期には絨毯爆撃となった。 第二次世界大戦では、1944年の北フランスで行われた連合国軍の「コブラ作戦」支援の爆撃でも絨毯爆撃が使用されている。 末期の1945年には、アメリカはドレスデン爆撃で無差別爆撃を行い、日本本土空襲では精密爆撃から無差別爆撃まで焼夷弾の使用も含む爆撃を継続的に実施した〔荒井信一『空爆の歴史』岩波新書129頁〕。 1950年6月に始まった朝鮮戦争において米空軍はB-29による絨毯爆撃を実施した。2001年から実施されたアメリカのアフガニスタン侵攻におけるB-52による地上軍支援で無差別爆撃が行われている。作戦地域が小さければB-52に代表される戦略爆撃機単独でも被害を与えられるようになっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「絨毯爆撃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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