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統一マレー国民組織(とういつマレーこくみんそしき、マレー語:Pertubuhan Kebangsaan Melayu Bersatu、英語:United Malays National Organization、略称:UMNO)は、マレーシアの最大政党で、与党連合・国民戦線(Barisan Nasional)の創立メンバーである。マレー系住民の政党。この項目では、以下略称で通す。 == 歴史 == === 独立前夜 === 1945年、現在のマレーシアと呼ばれている地域(マラヤ)は、第二次世界大戦終了後、再び、イギリスの植民地(マラヤ連合)となった。しかし、マラヤ連合は、数多くの反対に直面する。1946年5月11日、ジョホールバルにて、ダトー・オンを党首に迎え、UMNOが発足する。UMNOは、強硬にマラヤ連合に反対するが、この段階では政治的実権を掌握していたわけではなかった。1948年、マラヤ連合がマラヤ連邦へ移行すると、UMNOは、政権奪取に焦点を移すこととなった。 1951年、これまで、UMNOを指導してきたダトー・オンがマラヤ独立党を結成すると、ラーマンが、UMNOの党首となった(詳細は、トゥンク・アブドゥル・ラーマンの項を参照すること)。同年、ペナン・ジョージタウンでの議会選挙において、急進勢力—中国共産革命の影響が多分にある--が勝利を収めると急進勢力の勢力拡大を危惧したマレーシア華人協会(以下MCAと省略)と提携を結び、クアラルンプールでの議会選挙でもジョージタウンの選挙のような事態を回避しようとした。結果として、12議席中9議席をUMNO-MCAアライアンスが獲得し、マラヤ独立党を解体に追い込んだ。また、各地で実施された議会選挙でもこのアライアンスは成功を収めた。 1954年に実施された州単位の選挙では、国家規模では、アライアンスは、268議席中226議席を獲得する勝利を収めた。ラーマンは、イギリスへ独立のための使節団を派遣したが、イギリスは、断固としてラーマンの要求を拒否した。 1955年、マレーシアで初めて実施された総選挙(1955年総選挙)では、インド系勢力を代表するマレーシア・インド人会議(以下、MICと省略)にもアライアンスを呼びかけ、現在の国民戦線政権の原型が完成する。この選挙では、1959年までのマラヤ連邦の独立や全ての子供への初等教育の実施、マレー人特権の保護を維持するなどを公約に掲げ、UMNO単体では34議席、アライアンス全体では、52議席中51議席を獲得した(残り1議席は、全マレーシア・イスラーム党、以下PAS)。その結果、ラーマンが、マラヤ連邦の初代首相となった。 1956年、ラーマンは、再度、イギリスに独立のための使節団を派遣した。独立のために準備されるマラヤ連邦憲法が施行される1957年8月31日をもって、マラヤ連邦の独立を勝ち取った。また、アライアンス政府は、マラヤにおけるイギリスとそれ以外の外資の資産接収を行わないこと、イギリス軍のマラヤ駐留を認める条約を締結した。 ウィリアム・レイド卿率いるレイド委員会が、憲法の草案を起草した。連邦主義・立憲君主制といった概念が憲法に導入されると同時に、マレー人の特権の承認(これは、憲法3条、152条、153条で規定された)やイスラームが国教であることが明記された。マレー語が国語となったものの、華語・タミル語の教育も実施することが規定された。 こうして、1957年8月31日、ラーマンの手により、マラヤ連邦の独立宣言がなされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「統一マレー国民組織」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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