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計画経済(けいかくけいざい、英語:Planned economy)とは、経済の資源配分を市場の価格調整メカニズムに任せるのではなく、国家の物財バランスに基づいた計画によって配分される体制。対立概念は市場経済。また、計画経済と市場経済の利点を共に備えた参加型経済がある。 生産・分配・流通・金融を国家が統制し、経済を運営する。原則的に全ての生産手段が公有とされる。主に社会主義国の経済体制であり、現在、純粋にこれを採用する国は少ない。 より細かい分類として、 *ソ連などにおける「指令型(行政的)」 *ハンガリーなどにおける「誘導型(または規制された)」 *ユーゴスラビアにおける「自主管理社会主義」 に分類が可能であるが、1991年から1992年にかけてソ連とユーゴスラビアはいずれも国家経済が破綻し、人口的な連邦国家による実験は多数の人命を犠牲にし、最終的には複数の国家に分裂し、滅亡した。両国とも現在では失敗国家とされ、ハンガリーはそもそもソ連の衛星国に過ぎなかった為、21世紀現在では世界中の経済学者から否定されている旧東側諸国経済の運営方法である。 == 歴史 == 計画の機能を初めて本格的に取り上げたのは、『反デューリング論』や『空想から科学へ』を著したドイツのフリードリヒ・エンゲルスである。カール・マルクスも生産が「自由に社会化された人間の産物として彼らの意識的計画的管理のもとにおかれる」(資本論第1部)としている。 計画経済の原型はレーニンのゴエルロ・プラン、スターリンによる第一次五カ年計画期ソ連だった。複雑極まりない経済動態を当局者(ソ連ではゴスプランと呼ばれた)が完全に把握し、需給を調整したりするのは極めて難しく、コンピュータを用いてこれを解決しようという試みもあった(社会主義経済計算論争)。また計画経済システムの内在的な欠陥を市場メカニズムの導入により解決しようという試みがコスイギン改革やハンガリーにおいて進められたが、結果的に失敗した。 しかし、当時は世界恐慌の影響を全く受けず非常に高い経済成長を達成したため、世界各国が大きな影響を受けた。特に枢軸国への影響は顕著だった。例えば、 *満州国は、産業開発五カ年計画などを採用した(満州国の経済を参照)。 *日本も、企画院事件などで不発に終わったものもあったが、経済新体制確立要綱では計画経済を目指すことが明記された。官僚はソ連の計画経済に感化されていた(戦前日本の経済を参照)。 *ナチス・ドイツでは、私有財産権は保護されたものの、四カ年計画が作成された(ナチス・ドイツの経済を参照)。 *イタリアは、第二次世界大戦が勃発する1939年まで国有企業が占める割合がソ連に次いで最も高く〔Patricia Knight, ''Mussolini and Fascism'', Routledge (UK), ISBN 0-415-27921-6, p. 65〕、事実上ソ連の経済体制とほとんど変わらなくなった。 戦後も中華人民共和国やベトナム社会主義共和国のように社会主義を標榜する国以外でも、韓国や(朴正煕政権下の大韓民国の経済を参照)、マレーシアなど開発独裁下の東南アジアで五カ年計画が採用された。しかし、もともとその運用はソ連や東欧諸国に比べて弛緩していたため、皮肉にも経済改革(市場経済化)がスムーズに実行できる要因となった。特に中華人民共和国では毛沢東時代から既に経済の分権化が進んでいたと指摘される。 現在の中華人民共和国では「五ヵ年規画」という言葉が使われており、当局が予め目標を定めて経済をそれに誘導しようと試みるものの、価格設定など仔細な点まで立ち入らず、目標にも固執せず柔軟に対応している。したがって後者に近いと考えられるが、「社会主義市場経済」という言葉が用いられる。なお、中国語の「規画」は「計画」より自由なニュアンスだが、実態として依然、国家(党)の指導性が強いことから、日本語の「計画」に訳される場合が多い。 21世紀を迎えて以降のロシアにおいては、ウラジーミル・プーチン大統領の強力なリーダーシップのもと、オリガルヒと呼ばれる新興財閥を軒並み制圧し、国益にかなう企業(いわゆる「プーチンのリスト」記載企業)の経営権を様々な法利用で掌握するなど、事実上半官半民企業化、或いは国営化しており、代表的な事例にガスプロム社がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「計画経済」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Planned economy 」があります。 スポンサード リンク
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