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維新力 浩司 (いしんりき こうじ、1961年1月24日 - )は、日本のプロレスラー、バー店主。身長175cm、体重81kg。東京都杉並区出身。本名は飯橋 浩司。 大鳴戸部屋所属の元大相撲力士。最高位西十両筆頭(1989年11月場所)。大相撲時代は、身長175cm、体重92kg。 ==経歴== 実兄は国際プロレスのリングアナ→崩壊後は全日本プロレスでバス運転手→三沢独立後はプロレスリング・ノアと、プロレスメジャー団体で裏方として働いていた飯橋一敏。そのためプロレスに強いあこがれを持っていた。 相撲の経験は小学校・中学校時代を通じて地域の祭りの大会に出場する程度だったが、格闘技が大好きなため当時プロレスラーよりも体格に関する条件が緩かった大相撲力士を志した。高鐵山を尊敬していたということ、また大きな部屋だと「君のような小さな人は行司か床山になりなさい」と言われる恐れがあると考えた〔「痛快 小兵力士伝」『Sports Graphic Number』、1992年1月20日号、P.89〕ことなどから、当時弟子が2人しかいなかった〔高鐵山率いる大鳴戸部屋に入門した。 初土俵は1976年3月場所。初めの四股名は若高鉄。のちに四股名を「維新軍の長州力」にちなんだ現在の名に改名。あきらかにプロレス入りを予感させるもので、のちに実際にプロレス入りしたが、今日に至るまで長州力や維新軍とはまったく接点がない。 相撲取りにあるまじき腹筋の浮いた体格と、俳優・山下真司そっくりの端正な顔立ち、元気溢れる勇敢な取り組みで、十両では若花田・貴花田と並び立つ屈指の人気を博した。愛称は平成の牛若丸。1989年11月場所で西十両筆頭まで昇進したものの、体重が80kgそこそこの小兵であり幕内までは届かなかった。1990年3月場所では、8日目に曙を突き落とし、10日目に若花田を上手投げで土俵下に投げ飛ばすなど後の横綱から豪快な内容で白星をあげている。この間の9日目には貴花田と対戦、内容的には勝っていたものの髷掴みの反則を取られて敗れた。同年7月場所に東十両11枚目で2勝13敗と大幅に負け越し、幕下転落が確実となったため、この場所限りで廃業した。十両での通算成績は141勝159敗。十両在位は20場所と当時の年寄襲名の最低条件(十両連続在位20場所以上)も満たしていて本人にも年寄襲名の意欲はあった〔。また師匠・大鳴戸も将来的には養子にし、部屋を譲る意向があったとも伝えられたが、引退時に29歳で自分を賭けてみたい気持ちがあったこと〔や廃業前に大鳴戸から部屋継承のために提示された金銭的な条件に不満を感じたことなどから廃業を選んだという。 大方の予想通りすぐにプロレスに転向。兄の所属する全日本プロレスと敵対する、当時最も資金力のあったメガネスーパー(SWS)に新弟子として入団した。入団まもなくアメリカへ海外武者修行に出発、テキサス州ダラスにてジェフ・ジャレット戦でデビュー。しかし大物であり角界の大先輩である天龍源一郎とは別の部屋(道場・檄)に入った。SWSはほどなくして崩壊し、後継団体のNOW、WARを経て内臓疾患により引退。 WARが提携していたLLPW所属の女子プロレスラー・ジュリアナ詩子こと穂積詩子と結婚し、1994年には「どりんくばぁー『維新力の店』」を東京・吉祥寺にオープンした。 店は続けながら、後にプロレス界に復帰した。2006年以降、維新力主催プロモーション『どすこいプロレス』、『RIKIマニア』の開催に携わる一方、50歳を越えた現在もフリーのレスラーとしてIWA・JAPAN、WAPアジアンプロレスに参戦している。 自主興行時の最後の締めは「1(ひい)2(ふう)3(みい)どすこい!」。 得意技は、スピードと跳躍力とスタミナを生かした空中殺法。 2007年10月20日、テレビ朝日系討論番組「朝まで生テレビ! 激論“国技大相撲”に未来はあるか?」にパネリストとして出演した。ちなみに彼は、時津風部屋力士暴行死事件ではVTRや電話などの形で度々ワイドショーに出演していて、自らも「かわいがり」と称した兄弟子からの暴行を受けたことを明らかにしている。 また、師匠だった元大鳴戸親方には八百長に関与していることを著書で暴露されているが、本人は2011年2月に明るみに出た大相撲八百長事件のコメンテーターとしてTVのワイドショーに出演、暴力団との交際、賭博行為が角界に存在していることを一貫して否定している。 関取としては軽量だったが、対照的に、付き人を務めていたある関取は維新力よりも体格が良く、飲みに行くと店の店主はこの付き人の方を「関取」と呼んでいたと、この力士が引退する際に、落語家の桂文福が披露している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「維新力浩司」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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