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網野 善彦(あみの よしひこ、1928年(昭和3年)1月22日 - 2004年(平成16年)2月27日)は、日本の歴史学者。専攻は中世日本史。 == 生涯 == 江戸時代から続く地主網野家の当主・勝丸の末男として山梨県東八代郡御坂町(現在の笛吹市御坂町)に生まれる。曾祖父の網野善右衛門は実業家で、山梨中央銀行の前身のひとつである網野銀行の創業者である〔杉本(2009)、p.15〕。実父の勝丸は甲州市塩山の旧家出身で代議士も務めていた広瀬久政の次男として生まれ、網野家へ養子に入った人物〔杉本(2009)、p.15〕。久政長男の広瀬久忠は善彦の叔父にあたり、久政も右派政治家で戦前には山梨県初の大臣(厚生大臣)を務め、戦後には参議院議員となった〔杉本(2009)、p.15〕。久政三男の同の名取忠彦も戦前は山梨県翼賛会壮士団長で、戦後は山梨中央銀行の頭取として山梨県政財界で影響力を持っていた人物で、善彦の幼少期にはこうした右派的政治環境があったことが指摘されている〔杉本(2009)、p.15〕。 幼少期に東京市麻布区桜田町(東京都港区西麻布)へ移住。白金小学校卒業後、1940年(昭和15年)、旧制東京高等学校尋常科入学。このころの友人に氏家齊一郎や城塚登や増田義郎がいる。 旧制東京高等学校高等科文科卒業後、1947年(昭和22年)、東京大学文学部国史学科入学。学生時代は石母田正に私淑(網野善彦著作集より)。またこのころ日本共産党に入党し、山村工作隊の指揮や階級闘争による国民的歴史学運動に携わる。民主主義学生同盟副委員長兼組織部長となったが、のち運動から脱落する。 1950年(昭和25年)3月に東京大学文学部国史学科を卒業。同年4月から渋沢敬三が主宰する財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務した。1954年(昭和29年)に水産庁からの予算打ち切りが決まると同研究所を辞し、翌年4月から永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務。同年5月には日本常民文化研究所の同僚だった中沢真知子と結婚する〔中沢家は下神内村(山梨市)の豪農で、真智子は山梨市議・共産党員で在野の民俗学者である中沢厚の妹。中沢家は曾祖父の徳兵衛がキリスト教に受洗し民俗研究を行っているが、厚の弟・護人は共産党員として活動している一方で民俗学研究も行い、厚は護人の影響で共産党員となり、網野にも影響を与えていると考えられている。中沢家と網野の知的交流については杉本(2009)、中沢新一『僕の叔父さん』(2004)。〕。エンゲージリングが買えないほど貧しかったため、代わりにカーテンリングを贈ったという。 *1956年(昭和31年)6月、正式な教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務める。同校では部落解放研究会顧問を務める傍ら、東京大学史料編纂所に通って古文書を筆写、1966年に『中世荘園の様相』を著す。 *1967年(昭和42年)1月に同校を退職し、同年2月に名古屋大学文学部助教授に就任し、名古屋に転居。1973年(昭和48年)には中世史研究会発足に参加している。 *1978年(昭和53年)に『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』が学術書としては異例のヒットを記録。 *1979年(昭和54年)、神奈川大学が日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任し、1980年(昭和55年)10月に神奈川大学短期大学部教授に就任。1993年(平成5年)4月に神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設し、1995年から同大学経済学部特任教授となり、1998年(平成10年)3月に定年退職。 *2000年(平成12年)2月に宮田登の葬儀委員長を務めるが、その翌月に自身が肺癌だと分かり闘病生活に入る。 *2004年(平成16年)、東京都内の病院にて死去。享年76。遺骸は本人の遺志によって献体された。死去時には、ルモンド誌にも記事が掲載された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「網野善彦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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