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総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん、通称:総理衙門、満州語:、転写:geren gurun i baita be uherileme icihiyara yamun)は、清朝後期、外交や洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を管轄するために設立された官庁。1861年1月20日から1901年9月7日まで存在した。「総署」、「訳署」とも略称される。以下の解説では総理衙門と簡称する。時代が下るにつれて中国外交における影響力は低下したが、それまでの歴代中国王朝の外交手法を一変させる作用があった。 == 沿革 == === 設立の背景 === 清末期以前、中国の外交機構はその相手・地域によって担当が決められていた。つまり外務省にあたるような、対外関係を一元的に扱う部署が存在していなかった。例えば冊封によって朝貢してくる国との通商事務は礼部が、外蒙古・青海・西蔵・新疆といった藩部やロシアとの通商外交は理藩院が、唯一外国との交易を許した広州での貿易事務(広東システム)は両広総督が担当していた。つまり当時の中国外交は下記のように特徴づける事ができる。 * 外交を統べる役所は存在せず、管轄ごとに個々に対応していた。 * 『外交』自体が朝貢を前提としていたため、交易はしても朝貢はしない諸外国(フランス等)との外交部署は存在しなかった。 特に西洋諸国との公式な外交部署を持たない事に西洋諸国は不満であった。それでも紛争が広東省辺りで収まっていたアヘン戦争当時の1840年代頃までは、その地方を管轄する両広総督に欽差大臣(特命全権大臣)を与えてしのいでいた。だが1857年のアロー戦争によって両広総督府が陥落し、翌年には天津まで制圧されたとなると、既に問題は両広総督の手には余った。1858年6月にイギリス・フランス・アメリカ・ロシアと天津条約を結んでその場を収めるが、条約を一向に批准しない清国政府に業を煮やした英仏連合軍は1860年10月に北京を制圧し、北京条約を結ばせてしまう。そして北京条約締結後にイギリスとフランス代表は清朝に対し、外務省に当たるものを設立するよう求めた。 この天津条約・北京条約の中で、中国の外交制度として課題になるのは以下の点についてである。 * 両広総督管轄外の港の開港 *: 1858年の天津条約で10港〔天津条約で開港を約束したのは、牛荘(奉天省)、登州(山東)、漢口(長江沿岸)、九江(長江沿岸)、鎮江(長江沿岸)、台南(台湾)、淡水(台湾)、汕頭(広東省)、瓊州(海南島)、南京(長江沿岸)の10港〕、1860年の北京条約でさらに1港が開港している。天津条約時点の10港のうち8港までが華中・華南地域だったため、清朝は1859年に両江総督を欽差大臣に任命してこれを管轄させようとしたが、北京条約で首都の喉元である天津を開港させる事になったため、これまでの「欽差大臣による外交」からの方針転換を余儀なくされる。 * 各国公使の北京常駐 *: 天津条約の時点では「各国外交官の北京常駐」だったのが、北京条約では「各国公使の北京常駐」になっている。各国が公使である以上、必然的に清国も国として相対する部署を用意する必要が生じた。 これらの課題を解決するためには、中央に一元的な外交機構が必要と考えた恭親王奕訢・大学士桂良・戸部左侍郎文祥らが1861年1月11日に上奏し、3月11日に正式に総理各国事務衙門が成立した。これまでの中国の外交方針を大転換させたこの組織は、後の変法自強運動の先駆けともいえる組織であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「総理各国事務衙門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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