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練馬城 : ウィキペディア日本語版
練馬城[ねりまじょう]

練馬城(ねりまじょう)とは、現在の東京都練馬区向山にある遊園地「としまえん」の園内にかつてあった室町時代日本の城である。
== 歴史・沿革 ==
築城年代は不明であるが、14世紀末頃に豊島氏石神井城の支城として築いたものと考えられている。また、この城にはかつて「矢野将監」という者がいて(時期不明)、「矢野屋敷」「矢野山城」とも呼ばれていたという。そのほか、「海老名左近」という者がのちにこの地または北側の谷に居を構えた、との伝説も残されている。なお、『豊島名字之書立』(『米良文書』年月日不詳)には豊島一族の者として「ねりまひやうこ(=練馬兵庫)」「ねりま弥次郎」の名が記されているが、この人物と練馬城との関係は詳らかではない。現在ある遊園地「としまえん」は、当初遊具を備えた城址公園として開園されており、その名は豊島氏にちなんで付けられたものである。
豊島氏文明8年(1476年)に勃発した長尾景春の乱において、長尾景春に同調して山内扇谷上杉氏と戦った。この乱において、両上杉方の江戸城河越城の間に位置する練馬城は、近隣の豊島氏の城である石神井城とともに、両城の連絡を遮断する役割を果たした。
翌文明9年(1477年)4月13日、扇谷上杉氏の家宰太田道灌は江戸城を出発し、練馬城に矢を撃ち込むとともに周辺に放火した。これをみた練馬城主の豊島泰明は、石神井城にいる兄・泰経(ただし「泰経」「泰明」の名に関しては、当時の史料には「勘解由左衛門尉」「平右衛門尉」との官途名の記述しかなく、実際にそう呼ばれていたか否かは不明である)に連絡を取り全軍で出撃、道灌もこれを引き返してこれを迎え撃ったため、両者は江古田原〔鎌倉大草紙』では「江古田原沼袋」〕で合戦となった(江古田・沼袋原の戦い)。戦いの結果、豊島方は泰明ほか数十名が討ち死にし〔『鎌倉大草紙』では「板橋氏・赤塚氏など150名が戦死」〕、生き残った泰経と他の兵は石神井城へと敗走することになった。
この戦いについては、「道灌があらかじめ江古田原付近に伏兵を潜ませた上で、少数で挑発行為を行い、豊島方を平場におびき出した」とする説が有力である〔葛城明彦・伊禮正雄・八巻孝夫、齋藤秀夫その他〕。練馬城がその後どのようになったかは明らかとなっていないが、城主の討ち死にや、従兵の石神井城への敗走により無人となり、そのまま廃城に至ったものとも考えられている。なお、以前は道灌が最初に攻めた城は「平塚城」とされていたが、現在は「練馬城」とするのが新たな通説となっている〔黒田基樹・齋藤慎一・則竹雄一・西股総生・伊禮正雄・葛城明彦・八巻孝夫・齋藤秀夫その他〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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