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織田三位[おだ さんみ]
織田 三位(おだ さんみ、生年不明 - 天文23年(1554年))は戦国時代の武将。尾張守護代・織田信友の家老。 == 経歴 == 戦国時代初期、尾張守護・斯波義統や守護代・織田信友には実権はなく、家政は家老坂井大膳や河尻与一や織田三位らが下四郡守護代織田宗家の家老として家政を牛耳っていたが、尾張では織田氏傍系の清洲三奉行の一人、織田信秀とその子信長が守護や守護代を凌ぐ勢いを得ており、国内は混沌とした情勢下にあった。天文23年(1554年)7月、織田宗家の傀儡としての立場に不満を抱いていた斯波義統から信長に織田宗家の信長打倒の密議を漏らす事態が起こり、これを「御謀反」と怒った大膳や三位らが信友を説得し、義統の子 義銀が屈強な家臣を率いて川狩りに出かけるのを見計い、義統を襲撃し切腹させる事態が発生。義銀は信長に庇護されたため、新守護義銀を奉じた信長が清洲の宗家を攻撃する安食の戦いが勃発した。この結果、清州方は敗れ、信友は討ち死にし、大膳は逃れて駿河の今川義元の下に逃れるものの、三位は斯波家臣の由宇喜一によって討たれた〔谷口克広著『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺』(中央公論新社、2002年)38頁、堀新編『信長公記を読む』(吉川弘文館、2009年) 8頁参照。〕。 「三位」と名乗るが、実際に正三位・従三位の官位に叙された記録はなく〔また現実的にも、当時の武家で正三位または従三位に叙せられる資格があるのは足利将軍家及びその連枝、鎌倉公方、斯波氏、畠山氏、細川氏などの三管領をはじめとする足利一門や有力守護、公家大名などがほとんどであった。稀な例として斎藤妙椿など守護代や伊東義祐のような有力国人が三位に上る例もあったが、尾張では守護の義統自身は五位止まりで尾張国内の実力者であった織田信秀もまた五位であった。織田三位の主君である織田信友に至っては家柄や身分こそ信秀の主筋であったが無位無官のままで三位どころか五位にも及ばない地位であった。〕、織田三位の名乗る「三位」とは百官名など仮名の一種と見るのが妥当である〔百官名については、松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)2156頁、新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)2391頁参照。〕。同時代に同じ名を名乗った人物としては平田三位、下間三位などがいる。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「織田三位」の詳細全文を読む
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